社会主義のうぶ声

社会主義のうぶ声

2018-08-11

社会主義のうぶ声

黒い共産主義

「社会主義」という言葉の意義
共産主義を誘引した社会主義を平易に表現すると「貧しさや不平等から人びとを開放するために、理想的な社会を求める思想と運動」と言い換えられます。また、社会主義を経済的な面からとらえると、「生産手段を社会的に共有・管理して、平等な社会を実現しようとする思想と運動」と表現することもできるでしょう。

ここでいう生産手段とは、ある商品を作るときに労働と結びついて消費されたり使用されるモノを指していて、原材料、土地、道具、機械、建物、道路などがこれにあたります。社会主義の国では、生産手段であるこうしたモノを個人や私企業が所有するのではなく、全てを国の所有として管理します。そして、商品の生産は国の計画のもとで行われ、建前上では国による商品の分配は国民に公平になされるとされてます。

社会主義の国では、私有財産を持つことは許されません。その代わり、強者(資本家)が弱者(労働者)を押さえつけることもなく、全ての市民には平等な暮らしが保証されるとかつての社会主義者たちは主張しました。

社会主義運動のめばえ
『ユートピア』が書かれた時代にあっては、社会の矛盾(社会問題)についての思想は、極めて少数の知識人や道徳家たちが机の上でする論議にすぎない傾向にありました。そしてそれは小説『ユートピア』のように、現実の社会とは違った望ましい社会のありかたを、社会主義思想として表現するに留まっていました。

しかし、経済的発展が進むと市民生活における貧富の差は大きくなり、持てる人と持たざる人の区別が誰の目にもはっきりしてくるようになります。そして、人権、平等といったものが生活環境と直接関係した現実の社会問題として考えられるようになりました。それは、知識人が捉える社会の姿ではなく、農民や弱い人の立場に立って社会を見つめる流れを生んでゆきました。こうして、理想的な社会を求める思想は、机の上から飛び出して行動を伴った市民の思想へと変化してゆきます。

このことを、イギリスの清教徒革命とフランス革命を例にとってみてみます。

清教徒革命
清教徒(ピューリタン)とは、イギリス国教会に真っ向から対立するようになったキリスト教プロテスタント派のことで、清教徒革命とは、イギリス絶対王政による国教会VSピューリタンの信仰の自由、経済的には特権的商人VS新興してきた中小地主層(ジェントリ層)という構図で起こった1642年の内乱に始まり49年に王政が倒れて共和政が成立した革命をさします。

前章の「それは幻想から始まった」の中でヘンリ8世の離婚問題に触れましたが、この離婚・再婚を契機として成立したのがイギリス国教会です。イギリスにおけるキリスト教は、紀元2世紀頃のアイルランド経由でもたらされました。

そして、ローマ教会から初めての使者であったカンタベリーのアウグストゥスが派遣されて来たが597年ですから、300年以上もイギリスのキリスト教は孤立した島の中で独自に発展してきました。イギリスのこうした伝統的な一国性が、ヘンリ8世の離婚問題ではローマ教会に対抗する強烈な反抗心となって「国王の破門」という危機を、イギリスだけの国教会を建てるチャンスに変えたのです(脚注 1 )。

さて、このイギリス国教会はその成立の当初(1535年)から、貴族や富裕な商人などと密接なつながりがありました。それは、イギリス国教会が没収した修道院の土地を、これら一部の特権層に与えていたことからも明らかです。

このイギリス国教会の旧習を徹底的に取り除こうとしたのが、清教徒たちでした。ピューリタンという語は、イギリス国教会を清く(ピュア)するという言葉に由来し、清教徒革命の指導者だったクロムウェルも熱心な清教徒でした。清教徒の考え方は都市部の商人たちから一般市民へと広がり、当初は宗教的な対立であったものが富者と貧者との経済的な対立となり、やがてそれは王と議会との戦いへと階級闘争として発展してゆきます。

この時代のイギリス国王はチャールズ1世でした。彼は王権神授説(脚注 2 )を信じきっていて、自分は市民に対する責任はないと公言してはばかりませんでした。イギリス国民には「法こそ王である」という習慣がありましたが、極端に議会を軽視するチャールズ1世は、長いあいだ議会を召集せず絶対主義の政治を行い続けました。こうした王の圧制にまず立ちあがったのは、イギリス北部のスコットランドの人々でした。

1638年、貴族・市民・農民がいっしょになりチャールズ王に対して武装蜂起します。王はこれを鎮圧するための戦費を集めようと、1640年に11年ぶりの議会を召集しましたが、かえって長年にわたる王の圧制に不満を抱いていた議会の反発を呼び、議会は王の側近を処刑してしまいます。怒った王は兵を率いて議場に乗り込みましたが、議会はすでにロンドン市民の手中にありました。

こうして8年にわたる議会派と王との戦いが始まります。結局、王は議事堂の前に作られた断頭台の上で、押し寄せた市民の面前で処刑されました。市民が、富めるものを代表していた国王を力で倒した歴史的な出来事でした。

ここまでの清教徒革命の経緯では、理想的な社会を求める革命運動が(勿論、暴力革命ですが)成功したかのようにみえます。しかしこの革命は、議会派を率いていたクロムウェルにより思わぬ方向へ向かってゆきます。

クロムウェル自身は、貴族である裕福な家庭に生まれケンブリッジ大学で学び、1628年に庶民院議員となりました。彼が指導して王を倒した議会派を支持していたのは、地主貴族や裕福な自営農民。教科書的には清教徒革命が理想社会を求めた市民革命の一つに数えられていても、それは富裕な階層(ブルジョアジー)が率いた戦いであり、革命による恩恵を受けたのもまた彼らでした。

議会の頂点に立ったクロムウェルは、自分を支持したブルジョアたちの利益を確保するための条例を作ったり、上院議員を選挙によらず自身で指名したり、市民に重税を課したりして、クロムウェルの政治は「王なき王制」とまで呼ばれるようになります。

このように、清教徒革命は市民革命として民主主義の発展には大きな貢献をしましたが、貧しい農民や市民にとっては、王がいなくなった玉座に貴族が座っただけのもので、政治的成果以外にはほとんど得るものはありませんでした。この点は、日本の明治維新と同じです。

第一章の主題だったトマス・モアは悲惨な最後でしたが、このクロムウェルのその後も惨めでした。クロムウェルは病死でした。が、彼の死後、チャールズ2世を国王に迎えて王政復古が行われると、彼は国王裁判において反逆者の烙印を押されて墓を暴かれ、遺体は絞首刑ののち斬首され、その首はウェストミンスター・ホールの屋根に四半世紀も掲げられていました。(現在、その首は母校であるケンブリッジ大学に葬られています)

マハトマ・ガンジーが言ったように「暴力によって得た勝利というものは敗北に等しい。それはつかの間のものだからである。」を証明するような、クロムウェルの人生でした。


 1:イギリス国教会
イギリス国教会の成立は、単なる離婚問題によるものではありません。それは、正妻であるキャサリンに世継ぎである男子が生まれなかったことが大きな要因でした。そもそもキャサリンはスペイン王家の出身で、甥は神聖ローマ帝国の皇帝カール五世です。カール五世は西ヨーロッパを制覇したカール大帝(シャルルマーニュともシャルル1世ともいいます)の再来とも言われたほどの力と実績をもった王でしたから、イギリスが世継ぎを得られなければ、神聖ローマ帝国=ハプスブルク家=ローマ・カトリック勢力の支配に晒される危険性を孕んでいました。君主と教皇が互いにしのぎを削りながら権力共存してきた大陸と異なり、イギリスはもともと国王の力が宗教的権威に勝っていましたから、たまたまの離婚問題で直面した教皇庁の圧力に対して宗教的にもその独立を宣言したのがイギリス国教会の成立背景でした。こうしてイギリス国教会は政治的機構の一部分となり、聖職者たちは公務員として扱われ、政治と宗教の二人三脚が始まりました。

 2:王権神授説
王権神授説は、チャールズ1世の父・王ジェームズ1世が自身の統治を安定させるために利用した政治的プロパガンダです。ジェームズ1世は、イングランドの同君連合であるスコットランドから迎えられたため、支持基盤が不安定でした。このため、王権神授説を利用して専政を正当化。イングランド国教会を巧みに利用しながら、議会を無視して独占権を与えた貿易商や大商人らの商業資本によって財源を確保するなど、絶対主義王政を強めます。王権神授説は、チャールズ1世にも仕えたロバート・フィルマー(1588年?-1653年)らによってたてられた絶対君主制の基礎付けとなった考え。『人間は自由には生まれついてはおらず、従って、支配者と統治形態とを選択する自由を持ちえないから、君主はその権力を絶対的に、かつ神授権によって所有している。アダムは絶対君主であったし、彼以降のすべての君主もそうである』と主張し、王権を旧約聖書で人類の祖とされるアダムに由来する家父長権であると論じ、王権神授説を正統な王権の根拠としました。後に、ホッブズ、ロック、ルソーらから批判され、特にロックは、フィルマーの王権神授説は、人間の生来の自由を否定することにより成り立つもので、臣民を不幸に陥れるだけでなく君主の資格も危うくすると、社会契約説を展開することとなります。