12 ロシア革命 & レーニン
第8回 「レーニンが敷いた独裁体制」で、レーニン思想の3つの要点を延べました。
1)「革命は暴力革命でなければならない」
2)「プロレタリア独裁」
3)「民主主義的中央集権制」
レーニンが進めた社会主義国家・ソ連は、歴史が示すようにトロッキーの予言通りの「プロレタリア独裁は、プロレタリアートに対する独裁にいたる」という道を辿りました。どれほどの美辞麗句を並べてレーニンの社会主義国家を讃えても、この3つのポイントの冒頭にある「暴力革命」がある限り、レーニン思想は暴虐行為の肯定に立脚したものであり、したがって思想としての普遍性には程遠く、誰もが知るその敗北的結末からいっても、いっとき罹患する熱病のような特殊な思想であるとピエロは断定しています。
しかし、そんな熱病思想のレーニンを日本共産党は賛嘆して止みません。
『自由と民主主義のこれらの前進と達成に、科学的社会主義の事業が重大な貢献をおこなったことは、誰も否定することのできない明白な歴史の事実である。1917年にロシアでおこった社会主義革命は、レーニンが指導にあたった時期には、おくれた社会・経済状態からの発足という歴史的な制約にもかかわらず、またすくなくない試行錯誤をともないながら、科学的社会主義の真価を発揮した業績によって世界の進歩に貢献した。』(自由と民主主義の宣言 日本共産党 1996年7月13日改定版)
『マルクス、エンゲルスが死んだあと、その理論と精神を正面から受け継いだのは、ロシアのレーニンでした。・・・18歳で『資本論』を読み始め、マルクス、エンゲルスの手に入るあらゆる文献を徹底的に研究し、革命運動の分析に生かし、発展させました。・・・レーニンの本領は革命論でした。ロシア革命を指導した、その指導ぶりはみごとなものです。』(日本共産党中央委員会付属社会科学研究所長・不破哲三の講義(最終回) 2012年2月9日)
いやしくも公党に属する者が、数々の証拠が証明しているレーニンの「暴力革命」を「みごとなもの」と表現する態度は、プーチンや習近平が展開する破壊的なエゴと何ら変わるところはありません。
ここでは、10月革命までの経緯をもう少し探りながら、日本共産党が賛嘆してやまないレーニンを振り返ってみようと思います。
レーニン主義
レーニンはマルクス主義者ですから、彼の世界観はマルクス主義によって形成されています。そして、レーニン主義は、一般的にプロレタリア革命の理論と戦術であると言われています。また、それはロシアで完結しましたから、レーニン主義とはマルクス主義をロシアの特殊な環境下での条件に適用したものであるとも言えます。そしてその適用は、戦闘的な性格と革命的な性格、つまり暴力によって貫かれたものでした。
ロシア十月革命を調べる際には必ず参照とされる著作と言えば、アメリカ人ジャーナリストであるジョン・リードが書いた「世界をゆるがした十日間」。しかしこの著作には、巻頭にレーニンのきわめて好意的な序文があることからも分かるように、ボルシェビキ側からお墨付きをもらったボルシェビキの歴史であるとみたほうが良さそうです。リード自身も母国の共産主義労働党の結成に参画したりしていますから、著作としての面白みはあっても、ロシア革命への道標とするには注意が必要でしょう。
いっぽう、ロシア史研究者のユーリー・ペトロフは、その著書「1917年のロシア革命:権力、社会、文化」で、以下のように書いています。
「…我々は革命についてすべてを知っており、そこからあらゆる教訓を得たように思われる。しかし恐らく主な教訓は、再び革命を起こさないことにある。革命とはマルクス主義者たちが述べたような『解放された労働者の祝い』であっただけでなく、ロシアでは国の発展を後退させた『血浴(大量虐殺)』だった。…だが主な教訓は恐らく、人間の命をなおざりにした価値観で未来を構築してはならないということだ。」
ロシア革命については第7回「母の年金が頼りだったプロレタリアのリーダー」の脚注にメモ程度に載せていますが、ここでは日付でその道のりを辿ってみます。
第1次革命まで
1853年~56年: 「クリミア戦争」 英仏のバックアップを得たオスマントルコとの戦い。ロシアは敗北し、社会的・経済的・軍事的立遅れを万民が知るところとなり、政治機構や体制などの近代化の必要性や農奴解放の機運が生ずることとなった。
1861年: 「農奴解放令」 アレクサンドル2世によって施行された。農奴は法的に自由になったが生活は豊かにならず、社会的矛盾を増幅させてしまった。国内各地で農民騒乱が起こる。一方で、地方自治改革などの改革も併行してなされロシア資本主義発達の出発点となり、医者・弁護士など自由職業が出現し、都市労働者も増大し中間階級が増加。これが、ナロードニキの活動背景となる。
1881年: 「アレクサンドル2世暗殺」 後を受けて即位した皇帝アレクサンドル3世によって前帝の改革路線は否定される。アレクサンドル3世の後継はニコライ2世。国内的にはツァーリズムの強化、外交的には東アジアへの侵出というロシアの帝国主義政策がなされる。
1899年: 「全国一斉同盟休校」 政治的自由を要求する学生運動が全土に広まる。
1901年: 「フィンランド自治権否定」 フィンランドのあらゆる自治権が否定され、抗議するフィンランド人の請願運動が広まる。
1902年: 「地主襲撃事件」 南ロシアのポルタワ、ハリコフ両県で、農民による激しい地主領襲撃事件。
1903年: 1890年代の成長の基盤であった南ロシアの鉱山・工場地帯全域で長期かつ深刻なゼネストが起こる。
1903年7月: ロシア社会民主労働党の大会がロンドンで開かれる(第2回ともされるが実質的には結成大会)。
指導的地位にあったレーニンは、ロシアの革命の推進は西欧的な大衆政党ではなく少数の革命家の集団によるべきであると主張。農民・労働者の前衛として革命家集団が活動すべきであるとした。党綱領の採択では政敵マルトフに敗れるも、レーニン一派は党の人事面では多数を占めたので、多数派の意味でボリシェヴィキと言われるようになった。
1904年: 「日露戦争」 ニコライ2世による極東での冒険政策。
1905年1月: 「旅順陥落」 ロシア人にするとアジアの小国・日本に敗れたことで、ロシア政府の権威は決定的に失墜。この時を待っていた司祭ガポンは,彼が組織してきた首都労働者の合法的親睦共済団体〈ペテルブルグ市ロシア人工場労働者の集い〉(会員約1万)を動員して,改革要求の請願書を皇帝に提出することを目論む。
1905年1月9日: 「血の日曜日事件」 政治的自由と国民代表制、8時間労働と団結権を求めて、「私たちの祈りに答えてくれなければ、あなたの宮殿の前で死ぬほかない」と記された請願書をもった十数万の労働者とその家族は、ロシア帝国の当時の首都サンクトペテルブルクの数ヵ所から求心的に冬宮(ロシア帝国宮殿)めざして行進を開始。軍隊はこれに発砲し、政府発表では130人、革命側の見積りでは数百人の死者と数千人の負傷者を出した。
1905年2月4日: 皇帝の伯父でモスクワ総督のセルゲイ大公がエス・エル党員によって暗殺。エス・エルとは社会革命党の意味で、正式名称はPartiya Sotsialistov‐Revolyutsionerov。ナロードニキの流れをくみ、土地私有制の廃止、均分制の実施などを掲げ、主として小農民の支持を受けた。1905年2月18日: 政府は国民代表を法案の審議に参加させることを約束
1905年5月12: この日から72日間にわたり、中央工業地帯の繊維工業都市イバノボ・ボズネセンスクで全市ゼネストが打たれた。ここでストライキ参加企業の労働者の代表によって構成された「代表者ソビエト」が、全市ストライキ委員会として生まれた。「ソビエト」とは会議、評議会を意味するロシア語であるが、以後この語は人民権力の機関をも意味する言葉となる。
1905年5月27日: 日本海海戦でバルチック艦隊が全滅
1905年6月9~11日: ポーランド第2の都市ウッチで労働者がバリケードをつくり警官隊と衝突、300人以上の死者。
1905年6月27日: クリミア半島西部の海上で、ロシア海軍の黒海艦隊の戦艦ポチョムキンの乗組員たちが腐肉のスープに抗議。ボルシェビキの水兵バクレンチュークを将校が射殺したことが引き金となり水兵が一斉蜂起。その将校と艦長を射殺して艦を乗っ取る。しかし、反乱側に有能な指導者と明確な方針がなかったため官憲に降伏。関係者は死刑もしくは重労働に処された。
1905年8月末: 政府が大学、高等教育機関に自治を認める。これは、労働者、市民、政党が大学の構内で政治集会を自由に開くことを可能にする。大学が革命の震源地と化した。
1905年9月5日: 日露によるポーツマス条約に調印。
1905年10月7日: モスクワ~カザン鉄道の労働者がストライキに入ったことがきっかけとなり全国鉄道ゼネストとなる。ウィッテ(ポーツマス講和会議にこける全権代表だった)はニコライ2世に譲歩を迫り、ついに10月17日、市民的自由と立法議会の開設を約束する〈十月詔書(十月宣言)〉が出される。
1905年10月9日: 大臣会議議長職を新設する勅令が出され、ウィッテが初代の首相に任じられる。ウィッテの改革案は、民主的な選挙権の行使を通じて選ばれた立法議会(帝国ドゥーマ)の創設、市民的自由の付与、内閣政府の創設と「憲法秩序」の形成という内容。
1905年12月2日: ペテルブルグ・ソビエト(議長はトロツキー)、農民同盟、社会民主党両派(ボリシェビキとメンシェビキ)、エス・エル党、ポーランド社会党の6者が、国庫への納税拒否を呼びかける〈財政宣言〉と、政府は翌日、ペテルブルグ・ソビエトの代議員全員を逮捕し、ソビエトは壊滅した。12月7日モスクワで始まった抗議ストに対し、当局は攻撃をしかけ、抵抗する労働者をペテルブルグとポーランドからの増援軍によって粉砕。このとき約700人の労働者・市民が殺された(後に「モスクワ蜂起」と呼ばれる)
1906年2月20日: 政府は、皇帝権力に法律裁可の権限を残した国会と、国家評議会の二院立法制を発表。市民運動の結果は、無制限専制から国会と国家評議会の二院によって制限される専制への移行という、不徹底なものに終わった。
1907年6月3日: 首相兼内相のストルイピンによって第2国会解散と同時に、地主勢力を優遇する新国会選挙法を公布。国会を政府に協力的なものに強引につくりかえる〈6月3日のクーデタ〉。第1次革命は、ここで終わる。
ロシアの名門貴族の家に生まれたピョートル・アルカージエヴィチ・ストルイピンは、ペテルブルク帝国大学出身のエリートとして知事を歴任しました。首相となった彼が行ったのは、革命運動の拡大を防止するための農村改革。法的には解放された農奴は、その多くがミールといわれる農村共同体が共同で所有する土地に縛り付けられていました。ストルイピンは、ミールを解体し、農民に土地を分与して、自作農を創り出すことによって農民層への革命の拡大を防ごうとしたのです。
しかし、彼の土地政策は、下院である国会では改革派からは不十分であると批判され、上院である国家評議会では貴族や大地主から過激であると修正を迫られるという板挟みあいます。窮地に追い込まれたストルイピンは、しばしばツァーリの権限を錦の御旗として、議会を休会にして勅令で法律を公布するという手段を多用し、両方面からさらなる反発を受けるようになります。
1911年9月14日、ストルイピンはキエフの劇場において皇帝の面前で元警察スパイのユダヤ人青年に暗殺されてしまいます。享年49歳。ストルイピンの改革は自作農をある程度は生み出したものの、一方でミール共同体から離脱した多くの農民はさらに貧窮化し、農民においても階層分化が進んで、ロシア第二革命への社会変化の要因の一つとなったとも言われます。