7 母の年金が頼りだったプロレタリアのリーダー
ロシアに友人もなく訪れたこともないピエロは、2000万人以上の粛清を断行しその半数を処刑したとされるスターリンへの評価が近年のロシアで高まっていることが不思議でなりません。スターリンから二代後の最高指導者フルシチョフがスターリン批判を行ってから、スターリン評価はマイナスで推移していましが、2018年3月11日にロシアでネット配信された2時間余りのドキュメンタリーフィルム「プーチン」の中で、現大統領プーチン自身が、父方の祖父がレーニンとスターリンの料理人を務めたと明かしたこともあってか、スターリンへの肯定的な評価が高まっています。
ロシアの独立系世論調査機関「レバダ・センター」が2019年3月に行った調査では、スターリンに好感情を抱くロシア人の割合が50%を超え、ロシアの歴史に肯定的役割を果たしたと答えた人も70%に達したそうです。
ことの経緯は後述しますが、二次大戦前後の旧ソ連を独裁支配したスターリンはその先達であるレーニンの後継者です。マルクスが64歳で亡くなったとき、レーニンは13歳でした。マルクスは、プロレタリアが社会にあふれてくれば革命は自然に起きると考えマルクスは、プロレタリアが社会にあふれてくれば革命は自然に起きると考え『プロレタリア階級の勝利は不可避である。』と書きましたが、レーニンは革命とは自らが起こすものだと考え、プロレタリアにとっての革命は願望ではなく明確に達成すべき目標であると考えていました。
レーニンの生い立ち
「ロシア革命(脚注 1 )の父」と称されるレーニンは、1890年4月22日に本名ウラジーミル・イリイチ・レーニンとして生まれました。母方の曽祖父イワン・グロスショップは、スウェーデンから移住してきたユダヤ人で宝石商として成功し、ロシア帝国の女帝エカテリーナの相談役を務めるほどの権勢を誇りました。その娘アンナは、貴族出身のアレクサンドル・ブランクと結婚。二人の間に誕生した娘マリア・ブランクがレーニンの実母です。また父方の祖父は農奴階級出身の仕立屋でしたが、その子(つまりレーニンの実父)イリヤ・ウリヤノフは物理学者で、その功績が皇帝に評価されて貴族に列せられるほどの名士でした。レーニンが後に妻としたナジェージダ・クループスカヤも貴族の出ですし、レーニンの姉アンナの結婚相手も大貴族。つまり、ウリヤノフ家はまごうことなき知識階級で、レーニンが声高に叫んだプロレタリアとは全く異なった世界に生きていた人たちでした。もしもウリヤノフ家がクメール・ルージュのカンボジアに生きていたら、全員抹殺されていたでありましょう。
余談ですが、革命的な思想家や運動家にはなぜか裕福な家庭を背景にもつ人が多い気がします。フランス革命期で最も有力な政治家で代表的な革命家だったロベスピエールの実父は弁護士、チェ・ゲバラの家庭も裕福でしたし、その盟友カストロの実家も豊かな農場主。大正期の社会運動家で知られる大杉栄の実家も代々庄屋の家系でした。
余裕のあるウリヤノフ家でしたが、1886年に父イリヤ・ウリヤノフが54歳で急死すると風向きが変わり始めます。1887年、ペテルブルグ大学理学部に在籍中だった4歳上の兄アレクサンドルが、皇帝(アレクサンドル3世)暗殺未遂事件に関わったとして逮捕されます。アレクサンドルが加わっていたグループは、アレクサンドル2世(ロマノフ王朝第12代ロシア皇帝)を暗殺したソフィア・ペロフスカヤ(脚注 2 )の秘密結社「人民の意志」でした。
アレクサンドルは大学の動物学で金メダルを獲得するほどの秀才でしたが、貴族でありながら階級制度には反対だった父親の影響もあり、反王党派運動に共感しついにはマルクス主義に傾倒していきました。兄が絞首刑となったのはレーニン17歳の時ですから、兄の思想や行動をどれだけ理解できたか不明ですが、兄アレクサンドルの処刑という最後が少年レーニンに与えた影響は少なくはなかったでしょう。それはレーニン自身の言葉からも伺えます。「僕の道は兄が敷いてしまった」
レーニンは、大学に入ったものの学生運動に熱を上げ、入学後わずか4ケ月で逮捕され退学処分となります。また、ペテルブルクでマルクス主義グループに加わり、ナロードニキ(農村共同体を基盤とした独自な社会主義への移行を考え、「人民の中へ」をスローガンに農民の啓蒙に努めたが、農民の無関心と官憲の弾圧によって短期的に停滞した)や合法的社会主義を批判して独自の革命理論を作っていった。25歳の時には反政府運動のかどで逮捕され14ケ月入獄の後、4年間シベリアへ流刑されます。現地で女性革命家クルプスカヤと結婚。1900年にスイスへ亡命し翌々年〝レーニン”のペンネームで『何をなすべきか?』を著し、少数の職業的革命家からなる中央集権的な革命政党が労働者を指導すべきであると主張しました。1903年7月のロシア社会民主労働党の大会に参加し、その主張を展開しボリシェヴィキを指導した。第1次ロシア革命では当面のブルジョア民主主義革命の達成を目指した。
その後、ロシア革命を指導し、1917年に人民委員会議議長(首相にあたる)に就任し、1924年に死ぬまでその職にありました。この略歴から分かるように、プロレタリア(労働者)を率いて革命を成し遂げ、労働者の政府をつくった彼自身は、生涯一度も働いたことはありませんでした。
1886年に姉のアンナ・ウリヤノワは次のように書いています。「家族全員が母の年金だけで暮らしていたし、おまけに父の遺産も少しずつ食いつぶしていた」。
スイス、パリ、ドイツを転々として17年間も亡命生活をしていたレーニンの生活は、母の年金が頼りでした。
スイスでは、サナトリウムに住み、そこで健康を回復しましたが懐は寂しくなります。「私はもう数日間、このリゾートに住んでいて、気分は悪くありません。でも、ここの生活は非常に高くつきます。治療すると、さらに金がかかるので、もう予算を超えてしまいました。…もし可能ならば、さらに100ルーブル私に送ってください」。25歳になったレーニンは1895年7月に母にこう書いています。
何らかの活動に頂く援助に、私たちは「カンパ」という言葉を日常的に使っています。選挙事務所への支援にも、内々の小さなパーティにさえも「カンパをお願いします」と言っています。
カンパの語源は、ロシア語「kampaniya(カンパニア)」です。元来は、政治的な活動や闘争を意味していたもので、後に、ある目的を達成するために大衆に訴える組織的な活動をいうようになりました。そこから、カンパは資金を集めて目的を達成する面が強調され、資金を集める意味で使われるようになりました。語源からしても、派生した意味からしても、レーニンの活動は年金暮らしのお母さんのカンパによっていたのです。
このような男・レーニンが、共産主義の世界では労働者の指導者としてあがめられたのです。しかし、世界を二分する一方の勢力となる国家を一個人の個性でしかも短時間で作り上げたことは、人類の歴史にあまり例のないことで、20世紀に現れたチャーチル、ド・ゴール、毛沢東、ルーズベルトと並び、彼もまた歴史に名を遺した政治家の一人であることは間違いありません。ただし、その人類史的価値は別にして。
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知識階級に属する父と、マルクス主義を信奉してその実現のためにはテロ行為も厭わない実兄という環境の中で育ったレーニンは、日本のある共産党員の家庭環境といくつかの共通点があります。
その日本共産党員の父は、日本共産党員で船橋市立船橋小学校の教員を経て千葉県船橋市議会議員を務め、母親も日本共産党員でした。祖父は陸軍士官学校を卒業して陸軍少将にまで進みましたが、その五男(つまり叔父)は終戦直後におきた「ラストボロフ事件」であぶりだされたソ連のスパイでした。
そのスパイの名は、志位 正二(しい まさつぐ)。現日本共産党幹部会委員長の志位和夫の叔父です。
ラストボロフ事件は、松本清張、三好徹、佐々淳行らの著作で語られていますが、その概要は以下のようなものでした。
ことの発覚は1954年1月28日付けの毎日新聞朝刊でした。
「元ソ連代表部二等書記官姿消す 政治的な亡命か 警視庁へ秘かに捜索願い」という五段抜きのタイトルの内容は、「27日、警視庁公安三課に在日元ソ連代表部から同部二等書記官ユリ・A・ラストボロフ氏の捜査願がひそかに出された。同部では、ラストボロフ二等書記官は24日以来行方不明となっており、精神異常で自殺の恐れがあると届け出ているが、政治的亡命ではないかと見られている。公安三課では直ちに管下各署に手配した。」というものでした。
事件の真相はこの種の常で全てが明らかになってはいませんが、最終的にラストボロフはソ連本国で起きた粛清の煽りを逃れるために自発的に在京米国当局に保護と援助を求めてきたことが明らかになりました。
ラストボロフの亡命そのものはソ連内の権力闘争で起きた末節の事件ですが、問題はラストボロフに関係した日本人です。
ラストボロフは、赤軍特務情報部の管理下にあった極東語学研究所軍事部の学生に選抜された後に特務情報教育を終え、1946年1月に外務省翻訳官という偽の職名で東京に派遣されました。実際の仕事は国家保安人民委員部の特務情報部員、つまりスパイ行為です。事件発覚から約半年後の8月、ラストボロフは「自由世界へ逃れるまで」と題する手記を発表しましたが、その中に次ような記述があります。
「1948年1月、私はシベリア抑留中の日本人捕虜の中からソ連の手先になる人物を養成する機関に配属された。大尉に昇進していた。同年8月まで任務を続けた後、モスクワに帰任した。・・・ 1950年に来日した時は少佐に昇進。本年1月にソ連陣営を離れた時は中佐だったが、ずっとソ連内務人民委員部の特務情報部員だった。ソ連代表部の名簿には外務省所属の二等書記官と記載されていた。東京で課された特別任務は、アメリカ人の中からソビエト特務情報の手先をつくることだったが、極めて困難だったため、私はもっぱら日本人の手先の操縦に没頭した。」
この内容が朝日、毎日、読売などで大きく取り上げられると、当時の外務大臣であった岡崎勝男は記者会見で「日本人関係者の名前は言えないが、局長以上の政府高官は関係していない」と言明しました。が、読売新聞は社会面トップで「赤色スパイの手先き『幻兵団』の志位元少佐 米ソ両方に操られ自首」の見出しでラストボロフ事件の日本人関係者を特定して報じました。ラストボロフが亡命するに及んで、日本独立後にできた刑事特別法に触れるのを恐れて警視庁に自首したというのが記事の概要です。
志位正二は陸軍士官学校52期生で成績優秀でしたが終戦でソ連・カラガンダ収容所に抑留されます。昭和24(1949)年6月、舞鶴に上陸、復員。志位元少佐は舞鶴米軍特務機関のなかでソ連スパイ(いわゆる「幻兵団」と呼称されるもの)の摘発係として「渡辺」という偽名で働くことになります。こうして志位元少佐は、昭和26(1951)年3月まで舞鶴の米軍特務機関内でアメリカ側の情報を比較的自由に入手し得る立場に置かれていました。そして昭和26年4月から東京郵船ビル内の事務所に勤務していましたが、この時期にラストボロフとの連絡がつき、彼の指令によって活動を始めました。ところが、かねてから志位元少佐を怪しいとにらんでいたCIC(アメリカ軍の対敵諜報支隊 Counter Intelligence Corps )は彼を逮捕。ウソ発見器などを使って追求したところ、志位元少佐は昭和22(1947)年に抑留先のカラガンダでソ連スパイの誓約書に署名、さらに24年の帰国直前、ナホトカでそのスパイ使命を再確認する誓約書に再び署名したことを自供したことが明らかになりました。
1950年までにソ連の諜報活動の手先となった日本人は約500人に達したと推測され、ソ連諜報部はほかに「密告者」を「潜在的諜報者」と捉えていて、その数は8000名以上といわれています。
志位元少佐はその後、海外石油開発株式会社常務となりましたが、1973年3月31日、飛行中の日本航空の機内で死去しました。シベリア上空を飛んでいるときのことでした。
シベリアで日本人捕虜がソ連への協力を余儀なくされたのは、平和ボケした私たちの想像をはるかに超える生活環境があったからでしょう。−40℃超にもなる極寒のシベリアで支給される食糧と言えば普段では食べることもままならない黒パンや腐った馬鈴薯や塩キャベツなど。衛生管理は不十分で流行病が蔓延し、ソ連の諜報将校の1人によれば「日本人はハエのように死んでいく」状況でした。そんな中で、志位元少佐が生きて日本に帰るために敵国だったソ連「スパイ」の道を選択したことに、戦争をしらないピエロは批判することはできません。しかし。しかし、近親者を母国民を裏切る行為に引き込んだ共産主義という思想を敢えて受容して、あまつさえ共産党委員長になるなどという発想はピエロが100回生まれ変わっても出てこないでしょう。
1:ロシア革命
ロシア革命:年表的には1917年の10月革命を指しますが、その過程としての1905年に起こった革命を含めてロシア革命と呼んでいます。1904年に始まった日露戦争をきっかけに、ロマノフ王朝に対して大衆は戦争反対と生活改善を訴えました。1905年に旅純が陥落しロシアの敗戦が決定的になると、1月22日頂点に達した市民の反感は、市民約7万人を巻き込みながら王宮へ向けての大規模なデモとなりました。近衛兵はこのデモ隊に発砲し死傷者4000人を出す惨事となりました。(《血の日曜日》事件と呼ばれるものです)。この事件が発端となりロシア全土に武装蜂起が起こりましたが、軍隊により鎮圧されてしまいます。1917年、第一次世界大戦の敗戦により再び社会不安が増大し、2月23日の国際婦人デーの日に女子労働者による「パンよこせ」デモが起こりました。1905年の革命とは異なり、今回は農民兵士も労働者側につき、ついに帝政を打倒します。その後、臨時政府がたてられ、さらにレーニンらによるプロレタリア独裁政権が武力によって樹立され、歴史上はじめて社会主義政権の国が誕生しました。
2:ソフィア・ペロフスカヤ
1853年9月13日 – 1881年4月15日。1881年の「人民の意志」によるアレクサンドル2世暗殺の首謀者。ロシア史上、テロなどの政治的な裁判により処刑された最初の女性。父親は州知事を務める名門貴族の家庭に育ち、1869年にアラルチンスキー女子大学に入学しました。1871年から1872年にかけて、3名の女友達とともにチャイコフスキー団(または「大宣伝協会」。設立当初は読書会で、構成員には遺産相続した貴族も多数いたそうです。後にテロリズムを指向するようになる。)に加わります。学生時代から革命運動に加わり投獄と脱獄を繰り返して、「人民の意志」の一員となると皇帝の命をねらい、1881年3月1日にアレクサンドル2世暗殺に成功します。3月10日に逮捕され、翌月に他の党員5人とともに絞首刑になりました。享年28歳。