黒い共産主義

9 ロシア革命の背景だった「農奴」 

 前項「レーニンが敷いた独裁体制」でレーニン思想のあらましを見ましたが、理解のヒントとなる言葉の解説を蔑ろにしましたので、今回はちょっと寄り道してレーニンの表舞台となったロシア革命の背景を辿ってみます。

ロシアを旅する前に、日本のことを少し書きます。

慶応四年は日本近代史の中でも昭和20年の敗戦と並んで、とても大きな出来事があった年でした。

 1月 3日:鳥羽伏見の戦いで旧幕府軍が敗退
 2月13日:最後の将軍徳川慶喜、寛永寺で謹慎
 3月14日:五箇条の御誓文発布
 4月11日:江戸城の無血開城
 5月15日:彰義隊、上野で新政府軍と戦い敗退
 7月17日:江戸が東京と改称
 8月23日:新政府軍、会津若松城を攻撃。白虎隊自刃
 9月 8日:明治天皇の即位による改元。明治元年

激動という形容詞が毎月のように躍る慶応四年は、西暦1868年。この年の5月18日、ニコライ・アレクサンドロヴィチ・ロマノフがロシア帝国首都サンクトペテルブルクに生まれました。後に
ニコライ2世としてロシア革命で断罪され、ロシア帝国ロマノフ朝の最後の皇帝となった人です。彼がまだ皇太子だったころの1891年(明治24年)5月11日、日本を訪問中に、警察官・津田三蔵に斬りつけられた大津事件は日本史でも習いますし、皇后アレクサンドラに寵愛された「怪僧ラスプーチン」が傍らにいたことでも知られています。

当時のロシアは彼の曽祖父、祖父のときに起きたクリミア戦争(脚注 1 )での敗戦による国家的な破産状態にありました。クリミア戦争末期に急死した父ニコライ1世を継いで即位したアレクサンドル二世(ニコライ2世の祖父)は、パリ講和条約(1856年)によって帝国の念願だった南下政策の断念を余儀なくされ、国内改革に専念せざるを得なくなります。
ニコライ1世は、「農奴制は国家がその上に乗っている火薬庫」であり、農奴制廃止は「私が息子に残す最も必要な行為」だと述べたとおり、アレクサンドル二世が先ず取り組んだのが農奴問題でした。

ロシアの農奴制
ロシアでの農奴制の形成は15世紀後半のことです。イヴァン3世(1440-1505年)の頃に、ロシア人農民の中の階層分化が進み、地主と地主に地代を払う農民に分けられて、農民は土地に縛り付けられて恒久的に地代を納めなければならない農奴に転化したと考えられています。それまでは秋の収穫を終えれば農民の移動の自由が基本的に認められていました。ただし、領主に負債のある場合にはこの移動の権利は行使できませんでしたから、実情は多数の農民が土地に拘束されていました。この農民の移動を法的に規制したのがイヴァン3世。

ロマノフ朝第2代のアレクセイの時代となると農奴への締め付けはさらに過酷となります。1649年の「会議法典(1649年法典)」によって、逃亡農民の捜索期限が撤廃されて無制限となり、逃亡農民をかくまう者に対しては高額な罰金も定められて農民の土地緊縛が完成します。こうした土地緊縛に対し農民たちはしばしば激しく抵抗し、肥沃ではあっても人口の少ない南部などに逃亡をはかる者が少なくありませんでした。ウクライナなど南ロシアの草原地帯に広く見られるコサックは、このした農奴制の締め付けを嫌って自由を求めて移住した人々の後裔と考えられています。農民たちの反乱として有名なのが、17世紀のステンカ・ラージンの乱(脚注 2 )(ステンカ=ラージンはロシア民族の英雄であり、その民謡「youtube ステンカ・ラージン」は日本でもよく歌われました)、そして18世紀後半のエカチェリーナ2世の時に起こったプガチョフの乱(脚注 3 )です。

18世紀、ピョートル1世(在位1682-1725年)の時代となると、周辺国との紛争に対する常備軍の創設、都市や要塞の建造、運河や工場の建設など莫大な予算を伴う国家運営を余儀なくされます。そのピョートル1世が税収増加のために導入したのが人頭税。これは、頭割で各個人に均等に課せられる古代ギリシアにもあった原始的な租税ですが、ピョートル1世の人頭税は、農奴の人数分は地主の責任で徴収するとされました。収税のために地主は農奴の掌握を強める必要があり、農奴は地主の許可なしにその土地を離れることができなくなりました。ロシア以外の西欧の農奴制では14~5世紀に解放が始まりましたが、ロシアではむしろ農奴制の強化が進み、むしろ奴隷に近い状態へと逆行しました。ピョートル後の政府の最高指導者の一人、ヤグジンスキーは、彼の「覚書き」(1725-26)に、人頭税について以下ように述べています。

「既に数年間、穀物の出来は悪く、人頭税のために大きな苦しみが生じている。こうした凶作の時、農民は馬や家畜だけでなく播種用の穀物を売らなければならず、自ら飢えを招いている。そして大部分は、今後の自分の生活の糧になんの期待も持てない。既に多くのものが、飢えのために死亡した(ある老婆が、飢えのため自分の娘を河へ投げ棄て、溺れさせた、という報告を聞くのは恐ろしい)。また多くのものが、ポーランド国境の外へ、またバシキールヘ逃亡しており、それには哨所も効果がない。」

ピョートル1世が治世の網をかけたのは農民たちばかりではありません。彼は、すべてのロシア国民に、つまり貴族にも国家への奉仕を強要しました。彼にとっての貴族層こそは、改革を現実に担うべき重要な階層であり、国家に必要な人材群を提供すべきものとなります。封建領主として特権階級であった貴族は、ピョートル1世によって「国家への奉仕者」として生涯にわたっての勤務義務を課せられ、国家に縛られ隷属させられることとなりました。これは同時に、貴族が所有する土地や農奴は、かれらの国家奉仕のために経済保障とみなされるようになったことを意味しています。

ピョートル1世以前にも貴族の国家奉仕(=軍役)はありましたが、それは戦争が終わると同時に終了し、貴族らは農奴とともに領地へ帰り、領地経営に戻っていくというものでした。しかし、ピョートル1世の生涯勤務の命令により、貴族の国家奉仕は一時的なものから「常勤」へと変質し、休暇も希で、退役は大けがか老齢にならなければ認められませんでした。1704年からは毎年、若年層の貴族に対してその勤務先(高級将校、官庁勤務、前線部隊)を決定するための査閲が実施されました。この命令に出頭しない貴族の違反者が続出すると、違反者を告発したものは誰であってもその違反者の領地を含む全財産が与えれるという命令さえ出されました。

しかし、ピョートル1世が亡くなると貴族に対するこのような緊縛は少しずつ緩められ、ピョートル1世の死からおよそ40年後、孫のピョートル3世は1762年に、貴族の解放令を布告します。これにより貴族たちは自分の意思に反しての国家への勤務を強制されることはなくなり、中小貴族(注4)は地方に脱出して所領経営に向かうようになります。

エカチェリーナ2世
ピョートル3世をクーデターで失脚させて処刑し、政権を手中にしたのは皇后だったエカチェリーナ2世(在位1762-1796年)です。「王冠をかぶった娼婦」と呼ばれたロシア最強女帝で、愛人は300名以上いたともいわれます。しかし、優れた政治手腕により領土拡大を推し進めロシアの西欧化を成し遂げました。同時に、エルミタージュ美術館の礎となる絵画のコレクション、宝飾品の収集にも力を尽くし、自由経済の促進、教育・医療施設の建設、出版文芸の振興といった啓蒙思想に基づいた近代化政策を断行しました。

ピョートル1世が先鞭をつけエカチェリーナ2世で開花したロシア西欧化の特徴は、それが主に機械文明の導入であったことと、貴族層らによる西欧化教育の受け入れに限定されていたことでした。エカチェリーナ2世は啓蒙思想を理解したリベラリストであったかもしれませんが、フランスの百科全書派やドイツ思想の理論はあくまでそれらの国家の土壌としての歴史が背景にあるものであり、それが、全ての意味で前時代的な体制下でのロシアにすんなりと転作できるものではありませんでした。彼ら皇帝が試みた変革は絵に描いた餅に過ぎず、現実的な推移を辿ることはありませんでした。国家機構の改編がなされても、ロシア帝国の大部分を占める社会構造の基本である農民層にはさしたる変化はなく、従来どおりの厳しい生活が続けられていました。この時代のロシアの変革は西欧化の真似事に過ぎず、農民と国家・貴族の断絶が以前にもまして深まった時期であるとされています。ロシア語の「社会」という言葉には、「教養ある人々からなる社会層」のことを意味して民衆のことを含まないという用法がありますから、帝政時代のロシアの変革が貴族に関わる部分に限定されていたのも頷けます。

ロシア帝室の血を引かないドイツ人だったエカチェリーナ2世は、自身の政権維持のためには貴族の支持が不可欠で、貴族が反対する改革は実現不可能でした。彼女は、農奴制の弊害を認識していましたし、立法委員会にその緩和を打診したことはありました。しかし、クーデターの後ろ盾になってくれた貴族たちが猛反対するに及んでは、成す術はありませんでした。

また、エカチェリーナ2世が、1766年に産業革命期のイギリスと通商条約を交わしましたが、ロシアの主要輸出品は農業製品(穀物)です。産業革命など程遠い当時のロシアにとって、農産品のによって貿易の実を上げるしかありません。農業生産をあげる最短の方法は労働力の酷使で、そのしわ寄せは農民にきます。その結果、エカチェリーナ2世の治世下では、農奴が760万人から2000万人に増加したとも言われ、農民は奴隷に等しい境遇となっってゆきました。

当時の新聞には悲惨な広告がたくさん見られます。
「裁縫のできる28歳の娘売ります」「コックとして使える16歳の少年売ります」などのような広告が堂々と掲載され、実際に農奴市場までが存在しました。
農奴は一般に移動と職業選択の自由をもたない身分ではありましたが、通常は売買の対象となりえないものでした。しかし、ロシアでは売買の対象となりました。新聞広告には「本日午後10時、郡裁判所と市参事会立会いのもとに、故ゴローヴィン大尉所有の男女農奴6名、土地、家屋の競売あり、希望者の来観歓迎」など、農奴市場の開催を告知するものもありました。

貴族は、農奴を家族と引き離してでも売買できましたし、抵当に入れたりすることもありました。貴族は、みずから所有する家畜や建物同様に農奴を自由に扱うことができたのです。働けなくなった農奴や自分の気に入らない農奴を開拓民として「シベリア送り」にする権限さえもっていたとも言われます。

そもそも帝政ロシアにおける農民には、国有地農民、修道院農民、貴族領農民などがありました。そのいずれも農奴制の下におかれて、農民は移動の自由のみならず結婚の自由ももたず、領主裁判権に服さなければならなりませんでした。領主裁判権とは、殺人などの重罪を除き、領主または領地管理人が審判し、独断で判決を下すことが許される制度で、農民たちは些細なことで鞭打ち刑や罰金刑に服さなければなりませんでした。さらに、農民たちが町に出かけたり、他の地方に出稼ぎに行く場合には、必ず領主かその代理人の許可が必要とされましたし、農奴は、娘を嫁に出す際にも領主の承認が必要であり、しかもその承認は極めて気ままなものでした。

このようにロシア農奴制は、単なる労働力の管理のみならず人格的支配がともなう社会制度として続いて来たものです。そして、貴族領農民は世界的に見ても米国の奴隷制と肩を並べる苛酷な状況にありました。いっぽう、国有地農民といえども、皇帝の一存で国有地が貴族に下賜されることは頻繁でしたから、何の前触れもなく突然に貴族領農民として扱われることも珍しいことではありませんでした。農奴制下のロシア農民は総じて人格的な無権利状態にあり、領主の過度の要求や苛政、虐待に起因して死亡するケースもありました。農民側の抗議の方法は嘆願や一揆など多様でしたが、その広大な国土を反映して、故郷の村から逃亡するケースの多かったことが特徴的で、1727年から1741年、逃亡中であった農民は32万7000人に及んだという記録もあります。

エカチェリーナ2世の統治時代は、「貴族の天国、農民の地獄」と形容されるとおりに、領主と農民の懸隔が最も甚だしい時代でした。

エカチェリーナ2世の終焉から約60年後の1861年、農奴問題に劇的変化が訪れようとします。


 1:クリミア戦争
1853年から56年にかけて、聖地エルサレムの管理権をめぐるロシアとオスマン帝国との戦争。後に、ロシアの南下を恐れるイギリスとフランス、さらにはサルディーニャがオスマン帝国に加担して戦われた。当時のエルサレムはオスマン帝国の領土内にあったが、聖墳墓教会や聖誕教会のキリスト教聖地の管理は、16世紀中ごろからオスマン帝国がフランスに認めていた。しかし、フランス革命の混乱に乗じて、ロシアに支援されたギリシア正教徒がその管理権をオスマン帝国に認めさせた(1808年)。それから半世紀、フランス国内でのカトリック教会の人気を回復することを目論んでナポレオン3世がオスマン帝国に対して教会の管理権をカトリック側に戻すように要求し、それを認めさせる。これにロシアが反応。時の皇帝ニコライ1世が、オスマン帝国内のギリシャ正教徒の保護を口実に同盟関係を申し込むも、オスマン帝国は拒否。ニコライ1世は、約80.000の兵をワラキア(現ルーマニアの南東部)へ進軍して戦端が開かれた。ナヒーモフ提督指揮下のロシア艦隊がオスマン帝国海軍を全滅してロシアの優勢で緒戦は推移するが、オスマン帝国の劣勢を見たイギリスとフランスが60.000の兵でセバストポリを包囲し、ロシア軍10万、連合軍7万にも及ぶ戦死者を出しながら約一年後にセバストポリは陥落し、ロシアの敗戦となった。連合側の勝利は、産業革命を既に終えていたイギリスやフランスの軍備が優っていたことと、ロシアの鉄道が未発達であったことなどが挙げられる。文豪トルストイも少尉補として従軍し、ナイチンゲールも看護婦として戦場にいたことでも知られる。ロシアの敗北は国内の社会的・経済的・軍事的立遅れを万民の知るところとなり、近代化の必要性や農奴解放の機運が生ずることとなった。

 2:ステンカ・ラージンの乱

南ロシアの草原地帯に農奴から逃れたコサックによるロシア帝国に対する反乱。半農耕・半遊牧の生活を送るようになったコサックは、それぞれの首長に率いられて、次第に地域的な武装集団へと発展。ドン=コサック集団を率いてたのがステンカ=ラージン(正しくはステパン=ラージン)。南ロシアのドン川流域で活動していた自治的な戦士集団で、たびたび黒海沿岸やカスピ海沿岸に遠征して略奪行為を繰り返していたが、ついにヴォルガ川中下流でロシアからの独立をめざして反乱を起こした。ロシアはそれまで、コサックに自治権を与え、トルコなどからの国境防備などに利用していたが、ラージンの反乱に対しては強硬弾圧に転じた。ステンカ=ラージンは捕らえられ、1671年モスクワの赤の広場で四つ裂きの刑で殺され、反乱後すべてのコサックはツァーリ(皇帝)への忠誠を誓わされ、その自治権は大幅に奪われることとなります。

 3:プガチョフの乱

ステンカ・ラージンの乱から100年後の1773年に起こった大農民反乱。指導者プガチョフは、”生きている”「ピョートル3世」(エカチェリーナ2世によって廃され、直後に死亡したとされている)であると自称し、エカチェリーナ2世を帝位簒奪者として非難した。彼の呼びかけに応じて各地のコサックが蜂起、さらに帝国内のロシア人以外の民族や工場労働者まで支持を広げ、大反乱となった。1774年7月、「カザンの戦い」がヴォルガ川の町・カザンで行われ、プガチョフ率いる25,000人の反乱軍は初戦で皇帝軍を撃破し皇帝軍からは造反者も続出し、プガチョフ軍はカザンを占領。しかし、ミヘリソーン中佐の増援部隊が到着した皇帝軍は体制を立て直し反乱軍を敗走させる。プガチョフら500人となった残党は、ツァリョヴォコクシャイスク(今のヨシュカル・オラ)へ逃げ延びるも、反乱当初から付き従ってきたヤイク・コサック(ウラル・コサック)の裏切りに遭い、9月14日に皇帝軍によって捕らえられた。プガチョフとその仲間は1775年1月21日にモスクワで公開処刑。首を刎ねられた遺体はモスクワを引き回され、四つ裂きにされた。

 4:中小貴族
帝政時代のロシアにおける社会的レベルでの貧富の差は、貴族間にも存在しました。リヒャルト・モエラーの「ロシア史―ロシア民族の本質と生成」によると、エカチェリーナ2世に男子農奴者30人以下を所有していた貴族は全体の62%、30人~100人未満は21%、100人以上が16%、1000人以上は1%であったそうです。50人以下の農奴では貴族に相応しい生活は困難で、満足な教育さえ受けられませんでした。50人~500人の農奴所有者が典型的な貴族といわれましたが、その比率は30%もなかったそうです。また、ここを基準に上流、中流、下流というクラスに分けられていました。18世紀末に最も裕福だった伯爵シェレメーチェフ(農奴たちで構成されたシェレメーチェフ・オペラ劇場でも知られます)は、実に185,610人の男女農奴を所有していました。

参考文献
『ロシア史』岩間徹(編集) 山川出版社〈世界各国史4〉
『世界の歴史22 ロシアの革命』松田道雄 河出書房新社〈河出文庫〉
『歴史学事典4 民衆と変革』土肥恒之・南塚信吾・加藤友康・川北稔・尾形勇・樺山紘一(編) 弘文堂
『ロシア史』和田春樹編、山川出版社〈世界各国史〉
「ロシアのエカテリーナ2世」『ラルース 図説 世界人物百科II ルネサンス-啓蒙時代』樺山紘一日本語版監修、原書房

※ 投稿文中の敬称は略していることもございます。


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