3 ベルサイユのばら
フランス革命
社会主義萌芽期の二例目は、フランス革命です。1789年の革命が200年後の今でもその光を放ちつづけているのは、それが人間の基本的人権の確立に偉大な足跡を残したからです。
当時のフランスは、アメリカの独立戦争(1783年)に経済協力したことによって大変な経済危機にありました。また、この経済危機に拍車をかけていたのが、ルイ16世のぜいたく三昧の宮廷生活でした。この頃のフランス国家の全収入が5億3000万リーブルであったのに対して、ルイ16世が年間に使う金は、4億7000万リーブルにも達していました。ルイ16世は無能であるばかりでなく国務への関心などほとんど無く、異常な浪費癖のあった王妃マリー・アントワネットのご機嫌を取ることばかりに気を使っていました。
その一例がアントワネットのカード遊び。当時の平均的労働者の年収が400リーブルであったのに、彼女はトランプの掛けで一晩に10万リーブルも負けたこともありました。その財源はすべて国民の税金であったことを考えれば、池田理代子さんが「ベルばら」でいかにルイ16世を人間らしく描こうとも、やはり彼は政治的に無能であり人民の敵にならざるをえませんでした。
当時フランスの人口は2300万人でヨーロッパでは第一の大国。社会構成は、僧侶(12万人)・貴族(40万人)・平民の三つの身分に分けられていて、それらの代表者による議会・三部会はありましたが、175年間も開かれていませんでした。
バスチィーユ牢獄の襲撃
政府は危機的な経済状態を回復するために新税法の通過を三部会にはかろうと、ルイ16世の許可を得て175年振りに議会を召集しました。しかし、当時の三部会の構成は僧侶と貴族を合計した数より第三身分の平民議員の数が多かったため、王の意向を反映した政府は正常な手続きによらないで法案の通過を画策しました。パンを買うお金にも窮していたパリ市民は政府の強権ぶりに怒り、1789年7月14日フランス王制の象徴であったバスチィーユ牢獄に武器を持っておしかけ、これを破壊・占拠しました。
パリのこの暴動に影響され各地でも貴族、官吏、地主たちに対する殺戮や焼討ちが起こり、全国的な反政府運動が起こります。ここに至り、国民議会は貴族たちの特権を廃止する議決をし、1789年8月27日ついに歴史的な「人権宣言」の発表となりました。この宣言は前文と17章からなり、国民の自由と平等を基本的人権として認め、主権は国民にあることを宣言。男子のみでしたが参政権もあり、課税の公平さも謳われています。
明治維新に先立つこと100年のことです。
しかし、このような劇的変化にもルイ16世はいたって鈍感でした。7月14日のバスチィーユ襲撃の日の日記に、彼は「何も無し」と書き、人権宣言も認めませんでした。そして革命運動が燃え盛る最中、王がマリー・アントワネットの故郷であるオーストリアに女装して逃れようとしたことが発覚し、王の信用は地に落ちます。やがて王は捕らえられ、新たな選挙によって成立した国民公会(国民議会)が宣言した王制廃止の決議をうけて、1793年1月21日午前10時22分、小雨の降る朝、ルイ16世は現コンコルド広場で押し寄せたパリ市民が注視するなか断頭台の露と消えました。皮肉にもギロチン導入に賛成したのはルイ16世自身で、あの斜めの刃を助言したのも彼でした。
フランス革命のその後
王制が廃止された後のフランスは、権力の獲得を目論むたくさんの党が入れ替わり立ち代り政権を握りました。政権についた党は反対する勢力の抹殺を謀り、1793年からの一年余の間に2万人以上が対立する政党によって死刑に処せられました。市民の不満によって起こった革命は、結果として政治を志した人々の権力闘争へと姿を変えてしまいました。
その中で、このような不安定な革命後の流れを暴力によって変えようとした一人の革命家が現れました。
それが、貧農の子として生まれたフランソワ・ノエル・バブーフ(後に古代ローマの護民官・グラックス兄弟の名をとってグラックス・バブーフと名乗る:1760‐1797)です。フランス北部・ピカルディーに貧農の長男として生まれ、少年時より賢く達筆だったために父逝去の後に、地元の土地台帳管理人として自立します。
しかし、この仕事を通じて領主の不正を目の当たりにして、土地私有制の弊害を痛感します。また、ルソーなどの啓蒙思想に傾倒し革命思想に目覚め、たまたま『永久土地台帳』出版のためパリに滞在していたバブーフは、フランス革命の動乱を身をもって体験します。そして、革命から1ケ月後には土地台帳管理人の職を棄て革命運動に身を投じました。
彼は、革命の成り行きを最初から農民の立場で見つめていました。不平等から大衆を解放するはずの革命は、実際はブルジョアジーが自分たちの利益を追求する手段にすぎなかったことをつぶさに感じた彼は、フランス革命が掲げた「自由・平等・友愛」に比して「自由・平等・共通の幸福を! しからずんば死を」という過激なスローガンを掲げました。
運動の過程で繰り返し逮捕・拘禁されますが、その過程で秘密結社「パンテオン・クラブ」を結成し最盛時には2000人のメンバーをかかえるまでになります。しかし、革命から7年後の1796年、政府転覆を企てたことが発覚し決行前日に逮捕。かれもまた、ギロチンにかけられ37歳で亡くなりました。
バブーフは、国民がほんとうの幸福を得るためには、富者を倒し、私的財産を廃止し、強力で独裁的な政権によって改革を推進しなくてはならないと、彼は主張しました。彼の思想は、暴力革命による独裁のもとに新しい社会を実現するという点において、その後の社会主義思想、とりわけ共産主義の思想にたいへん大きな要素として残りました。それゆえに、共産主義という言葉を最初に字義通り使ったのはバブーフであると言われます。今でも共産主義者たちはバブーフを高く評価しています。
「大地に個人的な所有権はないのだから、この地は誰のものでもない。我々はこの大地の恵みの喜びを共有したいと願うし、その恵みは全ての人のものであると訴える。」との言が残っています。
字面はきれいですが、どれほど高邁な思想でもその実現に暴力を用いるのは天に唾する行為であることは論を俟ちません。