5 「共産党宣言」の誕生

共産主義 communism(コミュニスム)の語源は、ラテン語のコムーネ(commune)からきていて、財産を共有するという意味があり、社会主義思想の範囲に含まれます。ですから、共産主義という言葉が使われ始めた当初は、社会主義と同じような概念で使われていました。共産主義という語が社会主義と明確に区別されるようになったのは、マルクスとエンゲルスが書いた「共産党宣言」からです。世界中で見られる共産党は、すべてこの「共産党宣言」の思想を根本にしています。

「共産党宣言」の前夜
「共産党宣言」は1848年にロンドンで書かれ、資本主義が発達していたイギリスの社会状況がその背景にあることが大きな特徴です。この時代のイギリスの様相を、「共産党宣言」を書いた一人であるエンゲルスが著した『イギリスにおける労働者階級の状態』(1845年)に記述されているマンチェスターを例にとってみてみます。

マンチェスターの当時の人口は約40万人。街の中央は事務所と倉庫が占め、この商業地域を取り巻くように2.5㎞幅で帯状の労働者街がありました。中流のブルジョアはその帯の外側に、上流のブルジョアはそのさらに外側の高台に屋敷を構えていました。街には3本の川が流れ、ほとんどの工場施設はその川や運河の川辺にありました。皮工場、染色工場などから出る排水はみなこの河川にたれ流しにされ、川には汚物や廃物がたまり、水面からは有毒なガスがわき上がっていました。労働者の住居は、ひとりがようやく通れる幅しかない道を隔てて建つ10数軒が連なる長屋でした。風通しは悪く、湿気も多く、ゴミが散乱しトイレも10数軒に一つの共同使用。もちろん水洗ではありません。ある通りには645軒、7095人が住んでいましたが、トイレの数は33しかありませんでした。トイレの糞便は汲取人が集め、川に流していました。

劣悪な環境でも地上に住居がある労働者は、まだ恵まれていました。清教徒革命を主導したクロムウェルによってイギリスの植民地になっていたアイルランドからの移民農民の多くは、労働者の長屋住宅にも住めず、地下室で暮らしていました。ゴミや汚物は扉の前に積まれ、故郷の暮らしと同じように部屋にブタを入れて、ブタと一緒に生活していました。子供と婦人、そして多くの男子は裸足のまま歩いていました。

「共産党宣言」に至るまでの経緯
フランス革命の後に暴力による社会変革を目指したバブーフの思想は、オーギュスト・ブランキ(Auguste Louis Blanqui, 1805-1881)によって引き継がれました。ブランキの名は共産主義史の中では低い地位しか与えられていません。それはエンゲルスがブランキを「過去の世代の革命家」と断定したからだと言われています。

Blanqui
ブランキは、7月革命(脚注 1 )直後に共産主義結社「人民の友協会:Société des Amis du Peuple」に参加してその思想的基盤を作り上げました。それは、決定的な「資本」vs「労働」の階級闘争であり、ブランキの社会変革運動の特徴は机上の理論をただいじるのではなく現実の運動に身を投ずるというものでした。その後ブランキは「四季の会(もしくは季節社:Société des Saisons)」という組織を率いて、次のような暴力革命と革命独裁を叫びました。

『武器と組織こそは、悲惨さを終わらせる決定的な要素である。剣を持つものがパンを手にするのだ。銃剣の前に人はひれ伏し、武装解除された輩を一掃するのだ。武装労働者によって満たされたフランスこそ、社会主義の到来なのだ。』(1851年2月25日「人民に告ぐ」)

“Les armes et l’organisation, voila l’element decisif du progres, le moyen serieux d’en finir avec la misere ! Qui a du fer, a du pain. On se prosterne devant les baionnettes, on balaie les cohues desarmees. La France herissee de travailleurs en armes, c’est l’avenement du socialisme.”

ブランキの社会批判の原理は、政治的平等の表出は人民主権であると仮定すると、経済的平等の表現は等価交換でなければならいと点にあります。さらに彼の革命思想は「武装蜂起組織による権力奪取」「全人民の武装」「革命独裁」の3点から成り立っていて、それを時系列で捉えると「革命の準備」「革命の瞬間」「革命成立後の独裁期間」となりますが、特徴的なのはその主体に労働者階級を置いたわけではありませんでした。労働者階級が革命の主体でなければならないという考えは持っていましたが、彼が目にする現実の労働者階級は革命以前に教育が必須の階級意識のない人達でした。こそで、彼が革命の主体に据えたのは「デクラッセ:déclassé」=知性のある賤民(本来の意味は「自己の階級の外側に押しやられた者:oté hors de sa class」の意。)でした。

彼ら「デクラッセ」こそが「進歩の見えざる武器であり、今日大衆をひそかにふくらませ、彼らが衰弱の中に沈んでゆくのを防いでいる秘密の酵母菌であり、革命の予備軍」であるべきとしました。「デクラッセ」たちは、搾取される労働者としての労苦の由来を分かっていて、階級意識に目覚めた労働者となって革命の主軸となる者に、ブランキは「デクラッセ」という理念を付与したのです。

「四季の会」の特色はその組織構成にありました。7人が1「週間」と呼ばれる小隊を結成して、「日曜日」がその指揮をとります。そして4つの「週間」をあわせて「月」になり、3つの「月」をあわせて「季節」に。4つの「季節」をあわせて「年」に。これだ「年」は365人のメンバーを統轄することになります。この中での相互のやり取りは指揮官のみに許されしかも口頭で、指揮官以外の会員間の連絡は禁止されていました。メンバーは武器や弾薬の準備が義務付けられていて、会員の勧誘や逮捕時の心得も徹底されてました。

「四季の会」は1835年4月12日にパリ市庁と警視庁を襲撃。そこには赤旗を掲げた極左学生、青年弁護士、ジャーナリスト、労働者、一部のブルジョアらがいました。が、その襲撃は失敗し夕刻にはブランキ本人も捕えられて死刑の判決を受けます。国王ルイ・フィリップは、死刑にされるブランキが英雄になることを危惧して、終身禁錮に減刑し、さらに12年後に釈放します。ブランキらはその後もテロ活動を継続し、1948年の「二月革命」(脚注 2 )、1959年にはナポレオン3世による「第二帝政」などに対して積極的な暴力手段に訴えますが、いずれも失敗します。ブランキの投獄は通算で33年に及びました。ブランキは「第三共和政(1870年~1940年)」下では合法路線に軟化してしまい、一度だけではありましたがボルドー選出の代議士に選出されました。

ところで、「四季の会」はパリ在住のドイツ人亡命革命家による「義人同盟」に加わっていて、この義人同盟が中心となりロンドンに「共産主義者同盟」が結成されます。共産主義者同盟は、無政府主義者の集まりで、資本家を工場もろともに爆破し、社会を農業と職人たちの手工業からなる昔の姿に戻そうとしていました。そもそも「共産党宣言」は、この共産主義者同盟から要請された綱領として発表されたものです。マルクスとエンゲルスは、その政治的手腕と智識から共産主義者同盟の人たちから絶大な支持を受け、たちまちこの同盟の指導者的役割を果たすようになりました。

理想を掲げる社会主義思想に比べて、マルクス、エンゲルスによる共産主義は、社会のありさまを分析した結果として、資本主義社会は社会の変革を求める労働者を生み、労働者による暴力革命によって社会主義の社会が実現されてゆく過程を、必然性として示しました。そして、そのことを体系的に述べたのが『共産党宣言』でした。

 1:7月革命
ウジェーヌ・ドラクロワが描いた『民衆を導く自由の女神』の舞台。1815年の王政復古により王位に就いたルイ18世は、前時代的な政策で貴族や聖職者を優遇する政策をとった。ルイの後継となった弟シャルル10世も同様で、革命前の貴族が失った城館(シャトー)の代償のために10億フランの国庫金拠出を決めたことが決定的となり市民蜂起によるパリで市街戦を経て、フランスは立憲君主制の国家となり、労働者が階級闘争へ歩みだす具体的な契機となった。武力行動は1830年7月27日から3日間にわたり続けられたのでフランスでは栄光の三日間(Trois Glorieuses)とも言われる。シャルル10世は退位して復古王政はここに終わりを告げた。代わって王位についたのはブルボン家の分家・オルレアン家のルイ=フィリップで、フランスに立憲君主政が敷かれた。しかし成立した議会は制限選挙制による有産者(ブルジョアジー)が多数を占めた。この時期のフランスは産業革命が起こり都市部へ労働者が集中したこともあり、都市の中産階級と労働者階級が形成されて、彼らが普通選挙などの改革を要求する動きがこの革命でより活発化し、後の二月革命へとつながる。ヴィクトル・ユーゴーの小説『レ・ミゼラブル』の舞台は7月革命で、ショパンの『革命のエチュード』もこの革命が念頭にあったという。

 2:二月革命
7月革命によってできた七月王政を終わらせ、第二共和政に転換させた市民変革。
1848年2月13日朝、普通選挙を叫ぶ労働者・学生が続々集結し、マルセイエーズを歌いながらコンコルド広場からブルボン宮殿に向かい、バリケードを築く。翌23日、大半の国民衛兵が革命側に付き民衆の勢いはさらに煽られます。同時夜9時頃、組織されたデモ隊は赤旗をなびかせて外務省へ向かいます。このデモは労働者が赤旗を掲げた最初だとも言われています。デモ隊は、守備の任にあった正規軍が一斉射撃を浴び50名ほどが死亡。民衆は激昂し武装して翌24日にチュイルリー宮を襲撃。ほどなく宮殿は民衆の手に落ち、七月王政は終わりを告げます。七月王政を倒すという目的で一致するブルジョワの支持する穏健共和派と、労働者の支持する急進共和派(=社会主義派)によって二月革命は成功し第二共和政となります。労働者たちは二月革命のあちこち掲げられた赤旗を新たなフランスの国旗にと臨時政府に要求しましたが、ラマルティーヌ(詩人でしたがブルジョワ共和派の中心として革命に参加)は断固として拒否。フランスの栄光と権威を象徴する三色旗が国旗として正式に制定されたのもこの時。打倒目的だけで一致した穏健共和派と急進共和派による政治は長続きせず、わずか3年後にはルイ=ナポレオンが登場。彼はクーデター(1951年)を起こし、憲法を修正して翌1852年に、ナポレオン3世として即位してフランスは第二帝政へと移行。