方舟から降りた人たち

方舟から降りた人たち

2018-10-25

方舟から降りた人たち

キッパーのほつれ

以下の記述は旧約聖書をもとに構成してあります。出典が聖書ですから、そこに書かれていることが歴史的な史実かどうかについてはご想像ください。また、「天地創造」という映画をご覧になったかたは、映像のいくつかを思い出していただければ以下の記述がより映像的になるでしょう。

旧約聖書には『ノアの方舟(はこぶね)』という皆さんもご存知の話があります。
アダムとイブの子孫である人間たちは、欲望の赴くままの生活をし傲慢に邪悪になってしまいます。そのことに怒った神が、大洪水をおこして人間を抹消しようとしますが、ただ「神に従う無垢な人」で「主の好意を得ていた」ノアとその家族だけが、地上の全ての一対づつの生き物と共に巨大な舟(一説によると全長約160m)によって助けられ、漂流の後に現在のトルコ共和国・アララット山に漂着し、ノアの家族がその後のすべての民族の祖先となったという物語です。
(旧約聖書のこの部分は古バビロニアの英雄物語『ギルガメッシュ叙事詩』の一部に極めて類似しているために、転用したという説もあります。)

神と最初の契約(脚注 1 )を交わしたノアは『創世記』によると、大洪水のあと350年生き、950才で亡くなりました。ノアは500才の時にセム、ハム、ヤペテの三人の息子をもうけました。(セムは、セム族のルーツとされ、日本人もこのセム族に含まれています。また、セムの頃の話にあの「バベルの塔」の逸話があります)セムから数えて8代目にテラが生まれ、テラの子がアブラハムとなります。

神は彼にこのように言います。
「アブラハム、あなたは国を出て、親族と別れ、父の家を離れ、わたしが示す地に行きなさい。」

アブラハムとその一族は、メソポタミア平原の遊牧民となります。紀元前2000年頃の出来事です。辿り着いた土地が「約束の地―カナン」です。この時にアブラハムたちがユーフラテス河を越えて来たことから、彼らは「イヴリム人(ヘブライ人)」と呼ばれるようになります。イヴリムとは「河を渡って来た人たち」と言う意味です。

カナンに着いたアブラハムに、神は「あなたが滞在しているこのカナンのすべての土地を、あなたとその子孫に、永久の所有地として与える。」と、伝えます。

ユダヤ人がヨーロッパでもアメリカでもアジアでもなくただ「イスラエル」の土地に執着するのは、実にこのアブラハムと神との契約によるものです。
このカナンの地は、時代によって呼び名を変え、パレスチナ、イスラエル、ユダ、ユダヤと呼ばれ、今再びイスラエルと呼ばれています。

ところで、アブラハムにはなかなか子供が出来ませんでした。そこで妻サライは、自分の召使だったハガルをアブラハムと結ばせて、イシュマルを生ませます。このイシュマルがアラブ人の祖先となります。その後、アブラハムが100才、妻サライが90才の時に念願だった子イサクが生まれます。このイサクはユダヤ人の祖先と言われますので、現在では骨肉の争いが止まないユダヤ人とアラブ人はそのルーツを辿れば異母兄弟ということになります。

イサクは後にエサウとヤコブの双子の息子をもうけ、弟のヤコブは神の命により「イスラエル」と改名され、イスラエル民族の父となります。さらに、このヤコブは4人の妻に12人の子を産ませ、それぞれの子は皆一族を形成していわゆるイスラエル12部族の原形をなしてゆきます。ヤコブは十一男のヨセフを寵愛しました。が、その結果兄弟たちの反感を買い、兄弟たちに奴隷としてエジプトへ売られ、エジプト王ファラオの宮廷の侍従長に買われてしまいました。

しかし、ヨセフはエジプトで大変な立身出世をします。
ある日、エジプト王ファラオが不吉な夢を見ます。
『私がナイルの岸に立っていると、肥えた7頭の雌牛が川から上がってきて草を食べ始めた。するとその後から今度はやせた7頭の雌牛が上がってきて、7頭の雌牛を食べてしまった。』

王はこの夢の意味を臣下たちに問いかけますが、誰も答えようとしません。
その時ヨセフが発言します。

「それは7年間の豊作のあとに7年間の飢饉が来ることです。」と言い、さらに
「飢饉は豊作の後で来るのですから、豊作の7年間にたくさん食糧を備蓄して、そのあとの7年間の飢饉に備えたらよいでしょう。」

この答えに大変満足したファラオは、ヨセフを副大臣に任命して食糧備蓄計画を遂行させます。
一方、カナンに住んでいた兄弟たちは大変な飢饉に遭遇していました。それを知ったヨセフは幾つかの紆余曲折を経た後にファラオの許可を得て、飢餓に喘ぐ兄弟たちをエジプトに呼び寄せました。紀元前1600年頃のことです。


 1:契約について
ユダヤ教やイスラム教、キリスト教には「神との契約」という言葉が頻繁に使われます。基本的な考え方は、現在の私たちが使っている「契約」の語義と同じと考えてよいと思います。自動車をローンで買う場合には「ローン契約」を結ばなくてはなりません。販売店は自動車を買い手に渡し品質の保証やアフターサービスを約束し、買い手は支払いの義務を明文化させられます。物と金のやりとりの信頼関係を「ローン契約」で互いに保証しあいます。習慣的に日本人はこの「契約」ということが苦手です。それは、この国の基礎が農業にあることに由来していると思います。農業は植付けから収穫まで、集団作業が要求されます。自分の糧を確保するには、集団作業の義務を果たさなくてはならず、毎年例外なく繰り返される作業は「契約」で拘束される以前に、生存そのものを左右していると考えられるからです。
上記の3つの宗教の基礎は、遊牧の民から発生しました。定住しない民ですから、家畜を預けたり、売買したり、あるいは結婚するなどという行為は、契約で相手との信頼関係を文書として残して確実にしておかないと心配でなりません。こうした日常の「契約」は双方が対等の立場にありますが、神との「契約」では明らかに上下関係のものとなります。人々は神を肯定し服従する代わりに、神はその人たちを守り繁栄させる保証をします。服従は盲目的で、いかなる理解も放棄し、ときに道徳に反する行為でも神の命令には従わなくてはなりません。ユダヤ人は、ノアの契約、アブラハムの契約、モーセの契約、ダビデの契約など繰り返し神との契約を結びました。その内容は律法(英語では law、すなわち法律) と呼ばれ、聖書は、この契約を記す書物の役目を担っています。ちなみに、これらの宗教には度々預言者が出現します。これは、人間はその欲望によってしばしば神に背く行為をなします。しかし、それを放置すると神の怒りをかい、人間は滅ぼされてしまいます。そこで預言者が現れ、人びとに神との契約を守るよう警告することになります。何とも、販売会社の営業マンと管理職の関係のようですが、これがこれらの宗教の純粋性を保持するシステムとなっているのです。