エルサレム神殿の影

エルサレム神殿の影

2019-01-05

エルサレム神殿の影

キッパーのほつれ

前章の時代を少し遡りますが、ヨセフの助けによって、飢餓から逃れるようにエジプトに入植したのは全てのヘブライ人ではありませんでした。カナンの地に残ったヘブライの民もいましたから、モーセに率いられたヘブライ人がカナンへ帰還したことは、400年以上の歳月にわたって分裂したままの部族を再統合したという意味も込められています。

同系の部族であっても、歴史を経ることによって社会環境や習慣、また部族固有の性格にも変化が生じてきます。そうした同系であっても400年も隔てて複雑な背景をもつ諸部族をまとめ、一つの部族として求心性をもたせるためには、共通の過去と運命をことさら強調させる必要がありました。そして、その手段の一つして「契約」という考え方があり、「唯一絶対の神」という設定の必然性にも似た宗教的要素がありました。

しかし、この同系部族共同体国家は、それほど長くは続きませんでした。
ユダヤ人離散までの歴史を、おおまかに書いておきます。

-BC1020年:初代サウル王により、王政が始まる。
預言者サムエルは高齢になり、イスラエルの民から正しい裁きを行う王を求められます。自身の二人の息子は不正を行う者として退けられます。迷子となったロバを探していたサウルは預言者サムエルに出会い、サムエルの手で「油をそそがれ」(神に仕える者としての聖別の儀式)ます。30歳の時、サウルはイスラエルの初代王となります。連戦連勝のサウルのアマレク人(エジプトから出てきたモーセたちを最初に攻撃してきた民)との戦いに際して、神から次のような命令が下されます。
サムエル記15章:『主は、私(サムエル)を遣わし、あなたに油をそそいで、その民イスラエルの王とされました。それゆえ、今、主の言葉を聞きなさい。万軍の主はこう仰せられる。「わたしは、アマレクがイスラエルにした事、すなわちイスラエルがエジプトから上ってきた時、その途中で敵対したことについて彼らを罰するであろう。今、行ってアマレクを撃ち、そのすべての持ち物を滅ぼしつくせ。彼らをゆるすな。男も女も、幼な子も乳飲み子も、牛も羊も、らくだも、ろばも皆、殺せ。」』
またしても神は、この度は復讐の名のもとに、ユダヤの民にジェノサイドの命令を下します。
彼らにとって神は絶対的に正しいのであり、その命令に違背することはどのような理由があっても、また言い訳をしようとも神の前では罪でしかないのです。サウルは神の命に従って行軍し成果を示すのですが、神からの命令に背いて自分の判断で献げ物を選択するという勝手なことをしたため、サムエルはサウルを見限り、ダビデを王位につけました。羊飼いに過ぎなかったダビデもまたサウルと同じ30歳でイスラエルとユダの王となり(紀元前1000年)、エルサレムを王国の首都として40年間王位にありました。

-BC1000年:ダビデにより、エルサレムが王国の首都となる。
アブラハムの子孫がユダヤの王となり、イスラエルは繁栄します。政治、経済、芸術は栄え、イスラエルの神に対する信仰も深まりました。現在でもユダヤ人のダビデへの敬慕は強く、現在のイスラエルの国旗がダビデの紋章(五つ星)からもそれは伺えます。
しかし、ダビデもサウルと同じような道をたどります。彼はこともあろうに、部下ウリヤの妻バテ・シェバの誘惑に負け関係を持つようになります。さらに、ウリヤを戦場へ向かわせ戦死させてしまいます。やがて自分の罪に気づいたダビデは、神に告白し許しを願い、その願いは受け入れられます。が、自分の子アブサロムの反逆に遭いエルサレムの宮殿から追われてしまいます。アブサロムの反逆は時間をおいて平定されますが、ダビデに王国を統治する力はもはやなく、多くの妻をかかえた結果として家族間の争いが続き、これが後の王国の分裂、消滅、民族の離散と続いてゆきます。ただ、サウルと大きく異なったのは、ダビデは神に忠実であったことでした。

-BC960年:父ダビデを継承し、ソロモンが王となりエルサレムに神殿を構築。
「神はソロモンに非常に豊かな知恵と洞察力と海辺の砂浜のような広い心をお授けになった。 ソロモンの知恵は東方のどの人の知恵にも、エジプトのいかなる知恵にもまさった。」(列王記上第5章)と書かれるほど、ソロモンの知恵は特記されるものでした。そのソロモンの第一の功績はエルサレム神殿の建設です。神殿建設は前王ダビデにより計画されましたが、神の目からはダビデは罪を犯した者なので、建設は許されませんでした。ソロモンが王位について4年目に神殿の基礎が据えられ、7年半かけて完成しました。紀元前1005年ごろのことです。しかし、ソロモンもまたダビデの子でした。列王記上第11章にはそのことが詳しく書かれています。
『「ソロモン王はファラオの娘のほかにもモアブ人、アンモン人、エドム人、シドン人、ヘト人など多くの外国の女を愛した。これらの諸国の民については、主がかつてイスラエルの人々に、「あなたたちは彼らの中に入って行ってはならない。彼らをあなたたちの中に入れて はならない。彼らは必ずあなたたちの心を迷わせ、彼らの神々に向かわせる」と仰せになったが、ソロモンは彼女たちを愛してそのとりことなった。彼には妻たち、すなわち七百人の王妃と三百人の側室がいた。この妻たちが彼の心を迷わせた。ソロモンが老境に入ったとき、彼女たちは王の心を迷わせ、他の神々に向かわせた。こうして彼の心は、父ダビデの心とは異なり、自分の神、主と一 つではなかった。』

-BC930年:ソロモンの死去と同時に国内で反乱が起き、王国は南北に分裂
(北はイスラエル王国として、19代200年続きます。南はユダ王国として、ダビデの直系により400年統治されます。)
-BC722年:イスラエル王国が、アッシリアに滅ぼされる(民は離散して消滅)
-BC586年:ユダ王国が、征服した民をバビロニアに捕囚する(バビロニアの捕囚)
-BC538~515年頃:バビロニアを征服したペルシャ王クロスにより、ユダヤ人の帰還が許される。
これ以後ユダヤの地は、マケドニア、エジプト、シリア、ローマといった帝国の支配を経験しますが、ローマ帝国の外ではおおむね自治だけは認められていました。
-AC66~70年:暴君ネロ皇帝の下で、ユダヤ人の全面蜂起(この時の衝突で破壊されたソロモンの第二神殿の残骸が現在の『嘆きの壁』)
-AC73年:ユダヤ側の最後の要塞マサダが陥落(脚注 1 )。この戦を描いたのが1981年に作られた映画「炎の砦マサダ」。

-AC132年:バル・コクバの蜂起(ユダヤは一時的な自治を勝ち取る)
ネロ皇帝の下での反乱が第一次ユダヤ戦争と呼ばれ、このバル・コクバの乱が第二次ユダヤ戦争と言われる。
第一次ユダヤ戦争後も高まる反ローマ感情と独立願望を背景として、登場したのがシメオン・バル・コシェバ。自分こそはユダヤ民族を救う救世主(メシア)であるといい、さらに後には「星の子」(シメオン・バル・コクバ)というメシア称号を自称するようになる。これをラビであったアキバ・ベン・ヨセフが支持したことから人々の感情は一気に沸騰。
暴発のきっかけは130年のハドリアヌス帝の巡幸にありました。破壊されて荒れ果てていたエルサレムを見た彼はユダヤ人たちに同情して、エルサレムの再建・修復を約束します。が、聖地エルサレムが「アエリア・カピトリナ」と改称され、さらにエルサレム神殿跡地にユピテル神殿を立てる計画が判明すると、ユダヤ人の怒りが爆発。また、モーセ以来神との契約の印ある割礼を野蛮として禁止しようとしたことなどもユダヤ人には耐えられないことでした。
バル・コクバをリーダーとしての反乱計画はスムーズに推移し、各地でローマ軍の守備隊を打ち破り、ユダヤの支配権をとりもどすことに成功します。2年半にわたって、バル・コクバは政治的指導者となり、コインを鋳造し、神殿の再建も計画します。が、圧倒的な軍力を持つローマ軍は、勇将ユリウス・セウェルスの指揮のもと135年にエルサレムを陥落させることに成功しました。バル・コクバは戦死し、ラビ・アキバは首謀者として捕らえられ処刑。
ハドリアヌス帝は繰り返されるユダヤの叛意の要因はユダヤ教にあると考え、その根絶を目論みます。ユダヤ暦は廃止され、ラビたちは処刑。律法の書物は神殿の丘に埋められます。さらにエルサレムの名称を廃して「アエリア・カピトリナ」とし、ユダヤ人の立ち入りを禁じました。これが解禁になったのは紀元4世紀です。それ以後、ユダヤ人は、決められた日だけに神殿跡の礎石(いわゆる嘆きの壁)の前に立つことを許されます。ハドリアヌス帝の徹底さはユダヤの地名にまで及び、属州ユダヤは属州シリア・パレスティナと改められます。これはユダヤ人の敵対者ペリシテ人の名前からとったもので、現代まで続くパレスティナの名前はここにその源があります。

ここで、ユダヤの民とユダヤ教についてのまとめをしておきます。

まず、ユダヤ人とは何か?

この問いかけは、歴史上幾度となく発せられていますが、大別して2通りの定義付けが見受けられます。ユダヤ人とは「モーセの教え」を信ずる民であると規定すると、ユダヤ人という言い方よりも「ユダヤ教徒」の集合体がユダヤの民である言えますから、ユダヤ人は宗教的集団とみなされます。
もう一つの考えは、アブラハムの子孫であるという出生を加味してユダヤ人を民族もしくは人種として捉える考えかたです。ユダヤ教徒を親として生まれた子が、たとえ「モーセの教え」を捨て他の宗教へ改宗したとしても、その子はやはりユダヤ人であるとの規定がこれです。

現イスラエル国が1950年に定めた「帰還法」(離散したユダヤ人のイスラエルへの移住に関する法)にも、「ユダヤ人とはユダヤ教徒」であると述べられている一方で、(父親ではなく)母親がユダヤ教徒であるならば子はユダヤ人である、との叙述もあり、2通りの定義を並立させています。
また、この二つの定義の仕方は歴史の推移に従って変化しました。前者の宗教的集団としての見方は主として十字軍以前の捉え方で、後者は市民社会が国家であると考えられるようになった19世紀以降の特にヨーロッパでの捉え方です。

ユダヤ人はなぜ嫌われるのか?

十数年前、ナチのホロコースト論争をきっかけに一つの雑誌が廃刊に追いやられましたが、ユダヤ人を忌避する意見は、かなり昔からあり続けています。中世以降になると、ユダヤ人がキリスト教徒の子を誘拐し殺害する、あるいは、キリスト教徒が使う井戸に毒を投げ込んだ、といった話がまことしやかに流布し、社会現象までになりました。

その好例が、シェークスピアの「ベニスの商人」(脚注 2 )に登場するシャイロックでしょう。彼はそこで吝嗇なユダヤ人高利貸しとして描かれています。ユダヤ人嫌いの理由を辿るには、比較宗教学や社会心理学、文化人類学なども視野に入れなくてはなりませんので、正直言ってピエロの手には負えないとても複雑な問題です。ここではフランスの哲学者J.P.サルトルが書いた「ユダヤ人」からの抜粋と要約をもって、この項の説明とします。

サルトルは、反ユダヤ主義者が「経験によって彼らが悪人であることをはっきり知ったからだとか、統計からみて彼らが危険であることがわかったからだとか、ある種の歴史的原因が、我々の判断に影響を与えたからなのだ」とその理由を述べてはいますが、反ユダヤ主義は決してそのような外的原因で生まれたものではない、と断じています。

ユダヤ人嫌いということは「自己の自由な、そして総括的な選択の結果であり、単にユダヤ人に対してだけでなく、人類全体に対して、歴史と社会に対して、その人のとる総合的な態度」であり、それは思想などというものではなく「情念」なのだとしています。
しかし、この「情念」はやっかいなことに、「道徳的、あるいは政治的方向を与えるばかりでなく、世界観」にも繋がってゆく傾向をもっています。ユダヤ人嫌いは、一個の人間が自身の内で繰り返した思索の結果ではなく、多数に紛れ込んで集団としての意見をもって自己表現としているに過ぎない卑劣さと、「自分の責任に対しての恐怖」を併せもっている人であると、サルトルは言っています。

この意味で、非難の対象となるユダヤ人は自己の人格を規定する「一つの道具」に過ぎず、「他の地方では、ユダヤ人の変わりにあるいは黒人が、あるいは黄色人種」がその道具の役目を負わされているのだと綴っています。そして反ユダヤ主義とは、「一口に言えば、人間の条件に対する恐怖」であるとして一章を結んでいます。

多数の論理は決して会議や政治だけのものではありません。それは私たちの日常のなかに、常に存在しています。どれほどの不況下であっても、ブランド品に群がる人たち。自分達の経験とは異質なモノが出現すると、マスコミの論調に流されてマスの意見をさも自分の意見として置き換える人たち。多数の中にいることで社会的な安心感が得られ、多数の側にいることで自身の正当性を主張する人たち。このように考えると、サルトルの言う「ユダヤ人は一つの道具」という表現がよく理解できると思います。

人は誰でもこういう傾向を内在させています。

「ステレオタイプ」という言葉があります。これは、極めて限定された側面をもって全体像を断定してしまう思考や行動形態のことです。流行というよりも、すっかり大衆のなかに定着してしまった文化とも言える「占い」の類がこの良い例です。地球には60億の人間が、それこそ星の数ほど異なった生活環境のもとで生まれ成長しています。しかし「占い」の類は、多くても十数種類のカテゴリーをもって、全ての人間の性格や人格までも分類しています。血液型に至ってはわずかに4つしかないのに、「あの人はA型だから、○○だ」などという会話は日常のあちこちで聞かれるものです。ユダヤ人嫌いの根は、歴史的な要因や「事実」というよりも、このような日常に潜む人間の業 ― 他に対する恐怖を根拠のない優越感で目隠しする ― のようなものに起因しているのではないでしょうか。


 1:マサダ
マサダとはヘブライ語で「要塞」の意で死海の南西に隣接している世界遺産に指定された遺跡。ローマの侵略に対する最後のユダヤ人の要塞があった丘。東側は岩は死海に向かって約450メートルの高さがあり、西端では周囲の山がせまる約100メートルの高さがある。ローマ軍がエルサレムに攻め入った西暦70年頃の第一次ユダヤ戦争のとき、エリアゼル・ベン・ヤイールに率いられたユダヤ教徒の急進派967人が最後まで戦いつづけ、2年以上も抵抗した。最終的にローマ軍8000名に包囲された、異教徒の辱めを許容しない人々は西暦73年、2人の老婆と5人の子供を除き全員自決している。現在もここでイスラエル軍の入隊宣誓式がおこなわれ、式の最後には「マサダは2度と陥落させない」という誓いの言葉で締めくくられる。イスラエルを訪れる外国の要人が必ず立ち寄らされる場所といわれる。遺跡の上には、巨大な貯水槽や倉庫跡などがあり、ローマ軍が使用した「投石機」の直径40~50cmほどの岩塊が山積みにされている。また北西の斜面(写真右側)には、ローマ軍がマサダ要塞攻略の際に膨大な土を盛って作った人工の坂道が今もそのまま残っている。
Masada

 2:ベニスの商人
「ベニスの商人」のシャイロックは、ユダヤ人と高利貸しに対する当時の英国人の一般的な反感を反映していると考えてよいだろう。(イエスもユダヤ人なのですが)「イエスはユダヤ人に殺された」という原罪のようなところからスタートして、ユダヤ人は離散してから後は農耕からも手工業からも一切の生業から締め出され、住居も都市部から隔離された地域(ゲットー)に限定されました。そうした彼らが選んだ生き残る手段は、わずかな行商と金貸し業でした。キリスト教では利子を取ることが禁止されていましたが、タルムード(ユダヤ教における旧約聖書に続く聖典)ではユダヤ教徒以外からなら利子を得ることが許されていた。ですから、キリスト教徒による「ユダヤ人は暴利を貪っている」との非難が「ベニスの商人」の背景にあります。余談ですが、やはり歴史に残る名著は普遍的な価値をもっています。「ベニスの商人」はユダヤ人への嫌悪だけを書くのではなく、彼らの反論もしっかりと記述しています。シェークスピアは、被差別小数民族の嘆きを代弁するものとしてシャイロックに次のように叫ばせています。
「ユダヤ人には目がないと言うのか!手がないと言うのか!内臓も、五体も、感覚も、感情も、激情もないと言うのか!同じ食物を食べ、同じ刃物で傷つく。そして、冬は寒いし、夏は暑い。みんなキリスト教徒と同じじゃないか!」