シオニスム
シオニスム
シオニスムとは、ユダヤ人がその故地であるシオンの丘に帰還してユダヤ人国家を再興する運動をいいます。
シオンとは、かつてソロモンの神殿があった聖地エルサレムを指し、国家再建は、ディアスポラ以来のユダヤ人の夢でしたが、政治的目的をもった運動になったのは19世紀になってからでした。それは、ユダヤ人ジャーナリスト、テオドール・ヘルツルによって1897年にスイスのバーゼルで開催された第1回シオニスト会議により実質的なスタートをきりました。このときに採択されたのが「バーゼル綱領」で、その目的を「ユダヤ民族のために公法上保証された郷土をパレスチナに建設する」ことと規定しています。
ヘルツルはブタペストの裕福な家庭に生まれ、ウィーンで法律を学んだ後に高名なジャーナリストとなりました。ある事件に触れるまで、ヘルツルにとって反ユダヤ主義は個人的な悩みの種でしかなく、キリスト教徒への改宗まで考えた時期もあったそうです。しかし、ある事件をきっかけに、彼は反ユダヤ主義が個人的に解決できる問題ではなく、社会構造から生ずる問題であると気づきました。その事件とは、フランスで起きた「ドレフュス事件」です。
ドレフュス事件を語る前に、ちょっと寄り道をします。
ユダヤ人は大変に長い間、ヨーロッパのキリスト教社会のもとで絶えず蔑視され、差別され続けて来ました。「キリストを売ったユダの子孫」というレッテルを張られ、土地を持つことは禁じられ、住む所さえも限定されていました(日本における同和問題と共通しているところがあります)。選択肢が極端に少ない職業の中で彼らの多くは貸金業に従事しましたが、それもまたキリスト教徒たちの攻撃の的となりました。そのユダヤ人が平等の権利を持つ市民として認められたのは、1789年のフランス革命でした。皆さんご存知の通り、フランス革命の思想的原動力となったのは、ルソーの「社会契約論」です。この中でルソーは、国家は統治者の意思を反映したものであってはならず、市民の意思の表現としてあるべきだ、と述べました。
フランス革命が始まったとき、ユダヤ人も共和制の敵として槍玉にあがっていました。教会は革命の敵であり、ユダヤ人も教会と同じ旧約聖書を認めているからユダヤ人も敵、というのがその批判の根拠でした。しかし、ミラボー伯爵がこの窮地を救いました。
革命が起こる以前に、ミラボーはベルリンでユダヤ人であるメンデルスゾーンに会っていました。このメンデルスゾーンはあの作曲家の祖父にあたる人で、モーゼス・メンデルスゾーンで、「ドイツのソクラテス」と綽名されるほど高名な哲学者でした。モーゼスは、「モーセの五書」をドイツ語に翻訳します。ユダヤ人がドイツ語を覚えれば、ドイツの文学や科学書も読むようになるだろう、そして西ヨーロッパの科学、数学、文学、哲学にも触れることができるだろう、そうモーゼスは考えたのです。
その期待にユダヤの青年は応えました。ゲットーで隠忍していた青年たちは乾いた土が水を吸うように啓蒙主義を享受し、ゲットーから飛び立って行ったのです。彼が果たした役目は、ユダヤの智識をキリスト教徒に伝え、さらにキリスト教徒の価値観をゲットーの住人に認めさせたことでした。それはまた、すぐ近くまできていた自由の時代へ向けて、ドイツのユダヤ人に心の準備をさせることにもなりました。
ミラボーは、このメンデルスゾーンを通じてユダヤ3500年の文化と伝統を学んでいたのです。バスチーユの襲撃があったのち、ユダヤ人の指導が革命裁判に姿を現し、「我々にも市民としての平等の権利があるはずだ!」と主張しました。この主張を支持し雄弁を振るったのがミラボーでした。盛んな議論の果てに、この件は投票に持ち込まれます。結果は、53対7。1791年、フランスにいた7万人のユダヤ人は、ここに平等の権利をもつ市民となったのです。世界中のユダヤ人にとって、フランス革命は自分達の革命として写り、フランスは長い長いトンネルの出口で輝く巨星に見えたのです。
そんなフランスで起きたのが、ドレフュス事件でした。
ドレフュス事件
この事件は、ユダヤ人将校として初めてフランス軍参謀本部に入ったアルフレッド・ドレフュス大尉が、ドイツに機密情報を流していたとの嫌疑で逮捕され、軍事裁判により1894年に終身流刑としてギニア沖の悪魔島に流された冤罪事件をさします。
ことの全貌は今もって明らかにされていませんし、たくさんの本がこの事件を題材にして書かれましたが、著者のスタンスの違いによって結論は様々です。ただ、ドレフュスが、フランス参謀本部でただ一人のユダヤ人であったことから発した冤罪であったことは事実です。1899年の再審でドレフュスは情状酌量禁固10年に減刑され、さらにその一週間後、大統領特赦で釈放されましたが、このエピローグは「法的には有罪、政治的には無罪」という矛盾に満ちたものでしかありませんでした。
ドレフュス事件の特徴は、それが世論(マスコミ)の事件であったことでしょう。謎めいた言葉で民衆を扇動し、政治色を色濃く出して、偏見と悪意に満ちた記事で政治問題を事件として扱い、そして政治家もそれを利用しました。当時のフランスの世相は、経済的にも政治的にもパナマ事件(これについては後述します)を引きずり、フランス社会の底流にあった反ユダヤ主義は枯野に放たれた火のように広がっていたのです。
「ユダヤ人のフランス」を著したドリュモンは1890年に反ユダヤ同盟を設立し、反ユダヤを鮮明に打ち出すリーブル・パロール(自由言論)紙では指導的な役割を果たしていました。彼と彼の同調者はユダヤ人の将校を見つけては決闘を挑み、そして現実にユダヤ人を殺害していました。彼らによれば、ユダヤ人は、軍部内にあって謀叛をたくらむ素地があり、財界や官界の支配者であり、フランスの不幸、腐敗、敗戦はすべてが無国籍のユダヤ人の仕業、でした。
リーブル・パロール紙は軍とパリ市民の間に、少なくとも50万部以上の読者をもっていましたから、そのような喧伝がどれほどの成功を収めたかは想像に難くありません。ドレフュスを最初に犯人だと断定したのは、事件の調査にあたっていた参謀本部のダボヴィル中佐でしたが、彼はリーブル・パロール紙の熱心な読者でした。審議が始まると、リーブル・パロール紙を始めとする反ユダヤ主義を掲げる新聞は一斉にユダヤ人犯人説を支持し、容疑者ドレフュスの審議にもたついている軍部首脳を言葉汚く罵りました。充分な調査も審議もされないまま、逮捕から2ケ月後の1894年12月、軍法会議は全員一致でドレフュスに有罪判決を下し、上訴は却下されました。世論に押された軍首脳部たちが地位を保全するには、どうしてもユダヤ人の犯人を必要としたのです。1895年3月に、ドレフュスはフランス領ギアナの悪魔島(映画『パピヨン』の舞台にもなった島です)に送られます。
話しが前後しますが、民衆にはこの判決だけでは充分ではありませんでした。この事件の幕引きには、よりドラマチックな効果が必要だったのです。
それは悪魔島に送られる二カ月前の1月5日の凍るような朝、士官学校の校庭で行なわれました。
「ユダヤ人をやっつけろ!反逆者を殺せ!ユダヤ人を殺せ!」と叫ぶ群衆の真っ只中で、ドレフュスは屈辱的な位階剥奪の儀式を受けねばならなかったのです。襟章は引きちぎられ、サーベルは彼の目前で真っ二つに折られました。この儀式に参加していたサンデール大佐の言葉が残っています。「この人種には愛国心も、名誉も、矜持もありはしないのです。彼らは裏切ることしかやっていません。彼らがキリストを売り渡したことを考えてごらんなさい。」
これで一件落着と思われたのですが、新たに参謀本部情報部長となったピカール中佐は、陸軍少佐フェルディナン・ヴァルザン・エステルアジがドイツ大使館の諜報員と連絡を取っていることを突き止めます。ピカール中佐はエステルアジの筆跡を入手し、鑑定人に見せたところ、問題のメモと同一だったことが判明しました。ドレフュスの無実を確信したピカール中佐はその結果を上層部に訴えたのですが、陸軍大臣以下の軍首脳は軍事裁判の権威を守るため、彼の訴えを退けてしまいます。
一方、ドレフュスの妻リュシーと弟はドレフュスの無罪を信じて奔走し、弁護士に訴え陸軍大臣宛てに手紙をしたためます。こうした動きがある中、「オーロール」紙が、審議への疑問を取り上げ、さらにピカール中佐も良心に恥じて真相をドレフュスの弁護士に明かします。弁護士は再審を請求し、エステルアジも尋問されることとなりますが、彼はすでにイギリスへ逃亡していました(捕縛されることもなく英国で平穏に暮らしたと言います)。
共和主義と自由主義として知られるクレマンソーが主催する「オーロール」紙が、1898年1月13日にある記事を掲載します。それは作家エミール=ゾラの署名でフォール大統領宛の公開書簡で「余は弾劾す(J’accuse!)」と題する記事でした。ドレフュスの無罪を主張し、陸軍当局が証拠をでっち上げたこと、上層部がそれを謀議したこと、軍事裁判が真犯人を秘匿したことなどを激しく告発したものでした。しかし、右派や反ユダヤ系新聞は激しく反論し、逆にゾラは軍に対する誹謗中傷の罪で告発されてしまいます。
その再審裁判はドレフュスの無罪を明らかにする機会でもあったのですが、反ドレフュス(=反ユダヤ主義)の世論は依然として根強く、かえってゾラは有罪とされてしまいました(ゾラは、ロンドンへ亡命)。こうしてドレフュス事件は再び闇の中へ葬られてしまいます。
しかしその後、ドレフュス有罪の証拠をねつ造した疑惑のある軍人が自殺するなどの疑惑が浮上し、再審の声が強まります。そして、唯一の証拠である密書の筆跡鑑定が再度行われ、その筆跡はドレフュスではなくエステルアジのものであることが明らかになりました。1899年6月5日、ドレフュスは5年にわたる悪魔島の禁固を解かれ、再審のためにフランスに戻ります。8月にドレフュス出席のもとにレンヌで軍法会議の再審が開始されましたが、94年当時の参謀本部の責任者メルシエ将軍は上層部の謀議を否定。再審の判決は、2対5でまたしても有罪となり、情状酌量で禁固10年という判決でした。
ドレフュスは再び収監されます。しかし、政府内の共和派はドレフュス救済に動き、ドレフュスが再審請求を取り下げること(つまり有罪を認めること)を条件に、大統領特赦が出されることになりました。
1899年9月19日、ドレフュスは特赦によって出獄しました。彼はなおも自分が潔白であることをフランス社会に向かって訴えましたが、世間はもうこの事件に関心はなく、大佛次郎が『ドレフュス事件』で書いたように「海にそそいでから川が見えなくなるように、人の注意から消え」てしまいました。
ドレフュスが無罪判決を得たのは1906年になってからで、多くの歴史書には、「1906年にドレフュスの無罪が確定」と書かれています。これは破棄院(日本での最高裁)が同年に下した判決の破棄と無罪確定をさしているのですが、破棄院は上告された判決を妥当と認めるか、あるいは差し戻すかのいずれかが許されているのみで、無罪を確定する権限はありません。ドレフュスの無罪は、司法への政治的介入によってなされた結論ですから、真の意味での無罪をドレフュスは生涯にわたり勝ち取れなかったと記述して良いとピエロは思います。
ユダヤ人であるとの理由だけで、人権宣言の国・フランスの民主主義はたった一人の人間に下された冤罪さえも正すことができなかったのです。