「はやぶさ」の伏線を引いた人たち

「はやぶさ」の伏線を引いた人たち

2019-02-21

「はやぶさ」の伏線を引いた人たち

天晴!だった日本人

今は「立憲民主党」と改名した「民主党」が政権を担当していた時代の最も記憶に残るフレーズは、「2位じゃダメなんでしょうか?」
これは、国籍詐称でも話題になったタレント上がりのR議員(名前を書くのも不愉快なので略称)が、事業仕分けに邁進しているときに発した台詞です。

国と地方の財政赤字合計は1100兆円でGDPの2倍にもなりますから、ムダを削ることに反対する国民は皆無でしょう。しかし、問題はこの国の未来にどのような長期戦略を描いて「仕分け」を行うかです。しかし、R議員ら旧民主党が行った「事業仕分け」は党の存在をアピールするパフォーマンスであった意味合いが濃いものでした。例えば、今では世界が期待している山中教授率いる京都大学iPS細胞研究チームの予算が、R議員らによって150億円から50億円にされ削減されたとき、山中教授はこのように嘆きました。

「今後の日本がどうなるのか深く憂慮している」

山中教授の趣味はマラソンと言われますが、削減された予算を少しでも補おうと自身が広告塔になろうとしたのがマラソンへの参加であることは良く知られています。ノーベル生理学・医学賞を与えられた科学者が資金難を解消するために走っているなど、この国の国民として本当に恥ずかしいと思いますし、削減ありきで進められた「仕分け」の張本人たちが責任を取ることは、いつものことですが、ありません。

R議員が旗を振った「事業仕分け」対象になったのは宇宙航空研究開発機構(=JAXA)も同じでした。文部科学省は平成21年の概算要求に「はやぶさ2号」計画のための17億円を盛り込みましたが、旧民主党による予算削減で3000万円に縮小されてしまいました。

このときのR議員の発言は、所属政党であった旧民主党とこの議員の資質がいかに粗悪で唾棄すべきものであったかを示しています。
「はやぶさはミネルバ(はやぶさに搭載された小惑星探査ロボット)投下やサンプル採取に失敗している上、その原因はいずれもプログラミングのミスというお粗末なものです。こんな意義の少ないプロジェクトに150億円も投資し、能力の無いJAXA職員に高給を払い続ける意味は本当にあるのでしょうか? 」

能力に乏しいのは他でもないR議員自身なのですが、「国会」という看板を背負い赤絨毯を一度でも踏んでしまうと勘違いするのが議員という人種です。その証拠に、「宇宙の果てまで税金を垂れ流して」と言っていたR議員は、「はやぶさ」が7年ぶりに帰還してその成果が世界的に評価されると、臆面もなく「私も勇気をもらいました、素晴らしい」とのたまいました。今後の堅実な日本の「事業仕分け」のためには、「意義の少ない政党に80億円もの政党助成金を支出し、能力の無い所属議員に高給を払い続ける意味は本当にあるの」か甚だ疑問ですので、R議員ご自身が辞職なさるのが最適最善の方策であります。

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今回の「天晴だった!日本人」の主人公は、木村榮さんです。

木村榮(ひさし)博士は、明治3年(1870)石川県石川郡野村字泉新(現在の金沢市泉野町)にて菜種油の生産や酒づくりなどを生業とされていた篠木庄太郎の二男として誕生しまた。翌年、近くに住む親戚で子供のいなかった木村民衛の養子となりました。養父が運営していた私塾では、養父に代わって漢学や算盤を教えるなど神童ぶり発揮したといいます。明治13年(1880)、加賀藩校明倫館の流れを汲む石川県専門学校に首席で入学し、後に東北大学総長となった北条時敬に学び数学に目覚めたといわれます。この木村榮さんが、天文学上の偉業である「Z項」の発見者です。

唐突ですが、地球の回転には三種類の変動があります。

1. 自転速度の変化で、一日の長さが変化するとも言えるもの。
2. 地球の自転軸、すなわち北極と南極が地球に対して動く極運動というもの(直径にして3~10mくらいの振幅をもって動いている)。
3. 地球の自転軸がコマの首振りのように様々な周期で星々に対して動く現象で、歳差と章動の二つ。
  月、太陽、惑星の引力の影響で、地球自転軸の方向がすりこぎのように変わる円錐運動が歳差。
  月や太陽の引力の影響で、地球の自転軸が周期的に動揺する現象が章動。
極運動は地球の極の動き、歳差・章動は天の極の動きとも言えます。日本全国の測量を初めて行った伊能忠敬は、後述するオイラーとほぼ同時期にすでにこのことを知っていたと言います。

天文学的な観測の意義は、地球上の「ある点」で「ある時刻」に「ある星」が見える位置を正確に予測することにあります。そして、地球の回転を測るということは、星々が存在する空間に対する地球の姿勢とその時間変化を測ることに他なりません。さらに、ここでいう「星」には地球から旅立った宇宙船も含まれますから、はるか遠方の宇宙船を地球から追尾するためには、地球の回転変動を正確に知る必要があるのです。

下図のように地球は約1億5千万kmの半径でほぼ円軌道に沿って太陽の周りに公転運動を行い、1年で太陽の周りを1周しています。「ほぼ」と書いたのは、実際の公転形状は離心率0.0167 という小さな値の楕円を描いていて、円軌道からはわずかにずれた軌道に沿って太陽の周りを公転しています。
離心率e = √ a2 -b2 / a

さらに、地球は公転軌道に沿って移動しながら、自転軸(=地軸)の周りを1日1回転の自転をしています。地球の自転軸の方向は何万年という単位で変化しますが、生身の人間が測れる時間内ではほぼ一定の方向をなしていて、地球の公転軌道が作る平面(=公転面)に垂直な軸とはほぼ23.4 度の角度をなしています。仮に、地軸が公転面に立てた垂線に平行なら、昼夜の長さは常に等しくなり、季節の変化も起こりません。

その地球の極軸が、地球自体に対して動いているのではないかと考えたのはスイスの偉大な数学者オイラー(Leonhard Euler: 1707-1783)でした。そしてこの極運動が、305日の周期(オイラー周期)になると今から300年近くも前の1736年に予測しました。19世紀中頃からそれを検出する試みがなされます。実際にそれを発見したのは天体観測から答えを得たキュストナーでした。1884年のことです。ついで1891年、チャンドラーにより極運動の周期が10か月ではなく14か月であることが発見され、地球が完全剛体(力の作用によっては変形しない物体)ではない事が示されました。緯度変化の観測によって、地球内部の物理状態が調べられることになったのです。

1895年にベルリンで開催された第11回萬国測地学協会総会で、国際緯度観測事業(ILS:International Latitude observation Service)の設立が決議されました。ここで、極運動の決定精度を上げるため、国際観測網を世界各所の同一緯度上に展開して全ての観測所が同じ星を観測し、星の位置誤差に起因する誤差を取り除くことにしたのです。明治31年(1898)、緯度観測所を北緯39度08分上に6カ所設置することになり、日本では、翌明治32年に岩手県水沢市(現奥州市)に、緯度観測所が設置されました。

地名 北緯 経度 国名
ゲイザーズバーグ N 39:08:12 W 77:11:55 アメリカ合衆国
シンシナティ N 39:08:3 W 84:25:4 アメリカ合衆国
ユカイア N 39:08:14 W 123:12:42 アメリカ合衆国
チャルジュイ N 39:08:0 E 63:29 現トルクメニスタン
カルロフォルテ N 39:08:13 E 8:18:41 イタリア
水沢 N 39:08:1 E 141:07:9 奥州市水沢区

緯度観測所室長の任を与えられたのは、当時弱冠29歳の木村榮博士でした。ドイツ製の天頂儀を導入することもあって観測もドイツ人技師に任せるべきだとの意見もありましたが、それは退けられて度量衡に関わる初めての国際共同観測を日本人自身で行なうことになりました。北上川を東に見る当時の水沢は原野。冬場の寒さは如何ほどであったでしょうか。

観測が始まって1年余が過ぎたある日、国際観測事業の中央局(ドイツのボン)から手紙が送られてきます。水沢の報告を米国・欧州・ロシアなど他の観測所とのデータと比較すると値にずれが大きく、「日本の観測だけが誤差が大きく、理論値から外れる」との非難が書かれていました。日本の観測は未熟だ、日本の天文学はダメだ、などと散々に言われ木村榮は所長を辞めようとさえ思った日もありましたが、「石にかじりついてでも、自分の手でこの謎を解かねばならぬ」と決意し、誤差と言われた原因の究明に取り組みました。

恩師の田中館博士の助言を仰ぎ、観測方法等の見直しを行いましたが、自分たちが行った計測に不備な点は見つかりません。世界が言うほど水沢の観測は悪くはなかったのです。ある日、送られてきたデータから各観測所の残差を見直してみると、水沢だけでなく他の観測所にも同じような「おかしな変化」があることに木村は気が付きます。それは、冬になると6か所の観測が、みな共通して緯度が大きくなり、逆に夏になると小さくなるという現象でした。変化の大きさは角度で0.03秒というわずかな数値でしたが、観測精度からみれば決して見過ごすことのできないものでした。この変化を地上の数値に置き換えると、冬になるとすべての観測点が約1メートル北極に近づき、夏になると逆に北極から遠ざかる現象を示します。この変化が、極運動に起因しない緯度変化(Z項。もしくは「木村項」)と名付けられたものでした。このZ項を加味することによって、観測地点の気象変化や重力変化に起因する緯度変化の補正値が与えられるようなり、水沢を含めた各地の観測値の誤差などが正しく説明できるようになったのです。

観測データから地球の極の移動をはじき出すのに使っていたポツダム共同観測所中央局の責任者・カール・アルブレントの方程式。
Δφ = x cos λ + y sin λ

木村榮博士は、この計算式に、新しい項(Z項)を付加するする方程式を提唱しました。
Δφ = x cos λ + y sin λ + Z

やがてポツダム中央局によってZ項採用が決定され(1903年)、水沢観測所のデータの評価は世界最低から世界最高に引き上げられました。さらに、1920年には水沢緯度観測所が国際共同緯度観測所の中央局に認定されるという、最高の栄誉を与えられることになりました。

木村榮博士は、Z項発見の時のことを次のように語っています。
「何しろあの時は緯度観測といふ日本ではじめての国際事業を引き受けたものですから、私たちには大責任があるわけで、私もあれについては非常に心配しました。或る日、例によって、テニスをやって、そのまゝオフィスへ入ってテーブルの抽斗(ひきだし)をちょっと開けた。その瞬間にドイツの学界から来た書類が見えたのです。それをヒョッと見てゐると、すべての観測の平均の上に1年の週期のものがあるといふことがチラリと見つかった」(科学朝日、創刊第1号。1941年11月)

しかし、木村榮博士自身はZ項の機構を解明できませんでした。天体観測だけではなく、気象観測、大気観測、潮汐の観測、日食観測など実にさまざまな観測を行いましたが、生前中に答えに辿るつくことはありませんでしたが、約42年間にわたって地球の極運動の研究を行い、その学問的な基礎を築いたことは彼が受賞した栄誉が物語っています。

帝国学士院恩賜賞(第1号)。英国王立学会ゴールドメダル受賞。文化勲章受章(第1回)。英国王立天文学会会友員。フランス天文学会正会員。ドイツ天文学会正会員。アメリカ天文学会名誉会員。

1943年9月26日、木村榮博士永眠。

Z項の解明には70年もかかりました。それは、昭和30年(1955)に緯度観測所の所員となった若生康二郎によって昭和46年(1971)に明らかにされたのです。若生は、一時はその存在を疑う人もでたほどのZ項の解明に取り組み、それが太陽の引力(地球に潮汐を起す力:起潮力)に対する地球の流体核の共鳴現象であることを発見したのです。

「神は宇宙という巨大な書物を数学という言葉で書いた」といったのはガリレオですが、神が使った数学の意味を気が遠くなるほどのこまかい観測と検証によって解釈した木村榮、若生康二郎の努力は偉業というに相応しいと思います。こうした先人の功績の上に「はやぶさ」の成功があったのですが、残念なことにそれを理解する人物が旧民主党などには皆無でした。誠に、憂うべきことです。

ちなみに、天体にも興味をもっていた宮沢賢治の童話に、木村榮博士が登場します。
「風の叉三郎」の初稿である「風野叉三郎」に、木村榮博士が「観測所の博士」として描かれています。

「木村博士は痩せて目のキョロキョロした人だけれども僕はまあ好きだねえ、それに非常にテニスがうまいんだよ。」