天晴!だった日本人

武士の情け

師走になると日本各地で演奏される「第九」はもうすっかり日本の風物詩。季語にもなり、TVで特集が組まれたり映画にもなりましたから、その淵源が第一次世界大戦時のドイツ人俘虜にあることは今ではよく知られています。そのドイツ人を収容した板東俘虜収容所の所長が、本稿でとりあげる松江豊寿陸軍少将でした。

1914年(大正3年)9月1日、中国山東半島北側に上陸した日本陸軍第十八師団(約28,000名)はわずか2ヶ月でドイツ軍に白旗を掲げさせました。想定外に短かった戦いのためそしてその人数の多さのため、日本側には降伏した約4700名のドイツ人俘虜の収容施設は全く用意ができておらず、連れて来られた彼らは日本全国に散在する12ヶ所の施設にそれぞれ収容されてゆきました。(開設順に)東京浅草、静岡、大分、名古屋、姫路、松山、丸亀、徳島、大阪、福岡、久留米、熊本で使われた施設は弥縫策ゆえに、いずれも粗末な公民館や空いているお寺などでした。

ドイツ人俘虜のうち徳島俘虜収容所に振り分けられたのは206人。ここは「第九」が初演された板東俘虜収容所の前身となるものですが、板東に比べてこの徳島俘虜収容所のことはあまり知られていません。

しかし、収容が始まってから一年後の1915年10月に出されたシーメンス・シッケルト電気株式会社支配人のドレンクハーン(特別ドイツ大使の任を負っていた)による各収容所視察報告によれば、「収容所当局と捕虜の間に友好的な関係が保たれている」として収容所の模範として取りあげられたのが徳島収容所でした。徳島収容所にはドイツ人俘虜たちによって発行された収容所新聞「Tokushima-Anzeiger(徳島新報)」が存在したことからも推測できるように、ここでの俘虜たちは例外的に人道的扱いを受けていました。

しかし、そのような人道的な対応は陸軍中央の意向を反映したものではありませんでした。中央の姿勢はむしろ真反対のものでした。

後に関東軍司令官を経て陸軍大将になった植田謙吉(当時は陸軍騎兵少佐)の報告が残されています。

1915年2月に提出した俘虜収容所視察報告(国立文書館蔵『欧受大日記』)
「将来教育時間ヲ定メ俘虜ニ何等カノ教育ヲ施サント考フル所アリ。徒ニ収容所職員ノ業務ヲ繁忙ナラシムルノミナラス。日本語其ノ他ヲ教育セントスル如キハ無用ニシテ寧ロ害アリ」。
読書家で温厚な人柄と評される植田にしてこうですから、陸軍中央部の考えは推して知るべしでしょう。捕虜たちが日本語学習をして双方向のコミュニケーションが円滑になることは、軍にとっては「害」であったのです。もしもこれが太平洋戦争時なら、その「害」は例外なく直ちに取り除かれ、俘虜たちの人間としての尊厳が斟酌されることはなかったでしょう。

しかし、徳島収容所は違いました。
それは、所長であった松江豊寿陸軍少将に拠るところ大であったのです。

松江少将についてはネットでも多くの記事が掲載されていますので、ここでは彼の出身地について書いてみます。松江少将が生まれたのは本州最北端下北半島の斗南(となみ)です。

斗南は、明治維新を決定づけた戊辰戦争により賊軍に貶められた旧会津藩士が薩長によって転封された土地で、下北半島のほぼ全域と十和田湖東部の一帯にあたります。

錦の御旗をかざして維新を推進した官軍は、長州や薩摩などの武士によって先導されたと教科書的には書かれていますが、実際の彼らは武士としての素養は低く、品格にも欠けるところの多い最下級の武士もどき(例えば、伊藤博文は足軽の子)の人たちが主体となった官軍こそが、実は賊軍ならぬ俗軍でした。

例えば、高圧的で権威をひけらかしたため東北人に恨まれて、芸姑と一緒に酩酊していたところを襲撃され斬首された世良修蔵ごときが、奥羽鎮撫総督府下参謀だったことでも官軍の質が分かります。会津は何度も恭順の意を示しながらも無視され続け、挙げ句は少年、少女たちまでもが戦の犠牲となりました。鶴ヶ城が落ちた時、桂小五郎(後の木戸孝允)は小躍りして喜んだそうです。武士が備えるべき資質の一つとされた「惻隠」など、官軍の「武士」たちにはありませんでした。

そういった官軍によって文字通り地の果てに追いやられたのが旧会津藩士でした。松江少将と同じ会津藩出身で軍事参議官となった柴五郎翁の遺書の冒頭に以下のような記述があります。
「下北半島の火山灰地に移封されてのちは、着の身着のまま、日々の糧にも窮し、伏するに褥(しとね)なく、耕するに鍬なく、まこと乞食にも劣る有様にて、草の根を噛み、氷点下二十度の寒風に蓆(むしろ)を張りて生きながらえし辛酸の年月…」

旧会津藩士たちが経験した極寒の地の生活は言語に絶するものでした。柴五郎翁は抑揚を抑えて淡々と語っていますが、この遺書を読みすすめてゆくと、さらに壮絶な生活が描かれています。

痩せた土地とて蓄えもすぐに底をついた。海岸に流れ着いた昆布やワカメを干して砕き、木屑のようにして粥にして食べた。山野のワラビの根を同じように砕いて幾度も水にさらして沈んだ澱粉を食べた。猟師が撃った他人の飼犬を塩で煮て食べた。このような生活までし生きのびるのは、偏に会津の仇を討つためだ…、と柴五郎翁は語っています。

柴五郎翁にまつわるエピソードを今ひとつ。彼が9歳のとき、縁故を得て、東京新政府に出仕する土佐藩公用人の学僕となります。ある夜のこと、たくさんの芸妓がいる宴席の主人に五郎少年が呼ばれます。
酩酊して床柱に寄りかかりながら主人・毛利恭介が、満座の皆に戯言を言い放ちました。

「この小僧(柴五郎翁のこと)は会津武士の子で、母も姉妹も戦争のために自害して果てたよ。」

肉親の悲劇を酒の肴にした毛利恭介は、坂本竜馬や後藤象二郎、西郷隆盛、小松帯刀らが出席した薩土同盟に同席したほどの人で明治政府要人となりましたが、人間的資質のほどはこの程度でした。

2013年のNHK大河ドラマ「八重の桜」で幕末会津の模様は描かれましたが、斗南のことは解説のみにとどまりました。初代首相の伊藤博文にはじまり戦後の首相である岸信介、佐藤栄作、そして現職の安倍晋三らは長州出身ですから、会津一藩をまるごと流罪とした官軍の加虐な歴史を描くことなどNHKにしてみれば想定さえできないことでしょう。さらに、司馬遼太郎などが維新を美化した著作を垂れ流して、巷に誤った明治観を浸透させましたから、官軍=正義・旧幕府軍=賊軍という図式は今でも歴史的事実として膾炙されてしまっています。

維新の元来の意味は、さまざまなことが改革されて新しくなることですが、明治維新は単に徳川の武家統治が薩長の俗人たちに取って代わられただけのことで、この政変は維新でも革命でもありませんでした。薩摩の大久保利通らが主導した維新後の税制制度では、旧会津藩領には他地域の倍の税額が課せられたことをみても、新政府の統治理念は江戸時代に勝るどころか飛鳥以前にも劣るものでした。

足軽・伊藤の名を挙げましたので、初代首相・伊藤博文(長州藩)の年俸のエピソードを一つ。
当時の教員の年俸は60円。それに比べ伊藤の年俸は9600円でした。平成28年度の地方公務員給与実態調査結果によれば現在の小学校教諭の平均年収は539万円でしたから、これをもとに伊藤の年俸を今に換算すると、8億6千万円になります。足軽にすぎない男が首相となって得たこの金額には、新政府としての矜持も武士としての品格もありません。しかも、この男はゆく先々での宴席に必ず芸姑を侍らせていました。こんな男が日本の初代首相であることに、ピエロはとても不愉快です。

さて、体制側の旧会津藩へのこうした態度は、平成が終わる今でも変わっていません。官軍にとっての会津は「王政復古」を成り立たせるために徹底的に排除すべき障害物であり、それ故に会津には単なる敗者ではなく「賊軍」という名を冠しなくてはなりませんでした。したがって、「忠勇の英霊」を祀る靖国神社(旧東京招魂社)には、現在にいたってもなお会津藩戦死者は除外されたままです。太平洋戦争時のA級戦犯は祀っても、西南戦争で破れた西郷も、「賊軍」だった会津藩士も、天皇を尊崇して体制の中心に据えたい為政者にとっては、祀る対象とはならないのです。

これほどまでに蔑視される会津藩の風土の中で、松江豊寿は育ちました。柴五郎翁よりもちょうど一回り年下だった松江豊寿が徳島俘虜収容所長に任命されたのは1914年12月。1917年には丸亀、松山、徳島などの収容所がまとめられて板東俘虜収容所(現在の鳴門市大麻町桧字)となりましたが、そこでも松江豊寿が所長となりました。そこには後に久留米からの俘虜も加わり、合計約1000名のドイツ人捕虜が収容されていたといいます。

松江所長は、板東俘虜収容所の開設に当たり俘虜たちに次のように訓話しました。
「みなは祖国を遠く離れ、孤立した青島において絶望的な状況の中にありながら最後までよく戦った。が、時の利あらずして俘虜となった。が、みなの愛国の精神と勇気はいささかもゆるがない。どうかその名誉を大切にして欲しい。私はみなを遇するに、博愛の精神を縦糸に、武士の情を横糸にしたいと考えている。」

その言葉のとおり、俘虜たちは厚遇(というのも変ですが)されました。俘虜に暴力をふるった警備兵の代わりに所長自身が謝ったり、農学士だった俘虜は近隣農家の人たちに野菜の育て方を伝授したり、バン職人はパンを、酪農家はヨーグルトを、食肉加工を知っているものはソーセージを、収容所を通じて地域へ広めました。後の「第九」のメンバーとなる軍楽隊員には、松江所長自らが引率・通訳をして徳島まで音楽の出張指導をさせました。

しかし、このような実情を陸軍中央が黙認するはずはありません。

陸軍省に呼び出された松江所長を、俘虜情報局の将校たちが待ちかまえていました。局長の多田少将が怒りを込めて放ちます。

「君は捕虜たちからの評判もいいようだが、甘やかせば評判のいいのは当たり前でね。あとで必ずしっぺ返しを食う。陸軍省からの通達だ。板東収容所については、来月から予算を削ることになった。」

松江所長: 「理由はなんですかッ!」

多田少将: 「捕虜どもに、自由気ままに贅沢をさせる余裕など軍にはない。彼らは敵国の捕虜だ。それを忘れてはならん!」

松江所長: 「片時も忘れたことはありません。彼らは敵国の捕虜ではありますが、しかし犯罪者ではありません。彼らも、祖国のために戦ったのです。連合軍と互角以上に戦い抜いた勇士たちです。決して、無礼な扱いをしてはならず、戦争が終わってドイツへ帰還できる日まで丁重に扱うべきだと思うております。」

多田少将: 「君は会津の出身だったな。いつまでたっても、会津は会津だな。」

板東俘虜収容所が開所した1917年は大正6年、日本にはまだ「武士の情け」を体現していた軍人がいました。

松江所長に勝るとも劣らない「情」をドイツ兵たちにかけたのが副所長・高木繁大尉でした。

徳島生まれの高木繁は、陸軍士官学校出ですが、特に語学に秀でていてドイツ語、英語、ロシア語、中国語など7ヶ国語に通じていたそうです。収容所勤務中の1918年8月11日、収容所の体操クラブが「体操の父」と呼ばれるフリードリヒ・ヤーンの誕生日にちなんで「ヤーン祭」という体操演技会が開かれました。夕刻から始まった会が終了したのは就寝時間であった午後10時。しかし、久しぶりに羽根を伸ばした俘虜たちは、ある小屋に集まってビール片手に大盛り上がり。が、その現場を監視将校に見つかり、処罰を受けてしまいます。そして、その咎は催しを許可した高木大尉にも及びました。

悪くすれば失職と意気消沈する高木大尉に、ドイツ人俘虜が日本語で激励したそうです。

「捨てる神あれば拾う神あり」

この言葉に高木大尉は大笑いしたそうですが、俘虜たちとこれほどまでに交えることのできる日本人がいた事を、私達はもっと誇りにしてもよいと思います。

ちなみに、高木大尉は退役後に民間企業に勤めながら中国に渡り、日中ソ間の情報戦に従事したとも言われます。終戦後、ソ連軍によってシベリアのバイカル湖東方のチタに抑留され、最後はスヤンドロフクス州のアザンの病院で病没したそうです。ときに昭和二十八年四月三十日、享年67歳でした。

追記:2018年9月22日、「第9」初演から百年を記念して松江豊寿の記念碑が故郷の福島県会津若松市に建てられました。

※ 投稿文中の敬称は略していることもございます。


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