天晴!だった日本人

村民のために4日間生きた警察官

2018年9月9日、岐阜市内の養豚場で豚コレラウイルス陽性の豚が確認されたとのニュースがありました。同養豚場では前日までに約80頭が死んだとのこと。豚コレラは豚やイノシシに感染する病気で、人への感染はないという。今回の発生は1992年の熊本県で確認されて以来26年ぶりのことです。

熊本県出身の著名人といえば、勝海舟に「俺はいままでに天下で恐ろしい人物を二人見た」と言わしめた一人の横井小楠は熊本市内の生まれですし、世界で初めてペスト菌の発見に成功した北里柴三郎は阿蘇郡の生まれです。俳人の中村汀女も熊本県の生まれ。ここに記した偉人たちは小説や演劇の題材にもなってよく知られていますが、本稿で挙げたい熊本県出身の財は増田敬太郎です。

増田敬太郎は、明治2年1872年10月14日熊本県合志郡泗水村(現在の菊池市)に生まれました。阿蘇の土木工事に携わったり、地元の開拓団を率いて北海道へ渡ったりした後、常々人の役にたつ仕事を求めていた敬太郎は佐賀県巡査(警察官)募集の広告を目にし、通常は3ヶ月かかる警察学校の教習をわずか10日間で習得し、明治28年7月19日に唐津警察署に配属されました。この配属が敬太郎の人生を決定付けました。

当時保険所の機能も兼ねていた佐賀県警察本部は、高串地区への警察官の派遣を決め、唐津署赴任わずか3日目の増田巡査を抜擢し、7月20日に出発させました。県警察の幹部は敬太郎に向って「君の学識と経験ならびに気力などを総合すると、これ以上の適任者はいない。この危機を救ってくれないだろうか」と要請したといいます。

もともとインドの風土病だったコレラは、コレラ菌で起こる伝染病です。19世紀あたりから世界各地に伝染し、日本での初めて流行は江戸時代後期の文政5年(1822)のことでしたが、未知の病のため予防措置などとりようがありませんでした。コレラに感染すると、激しい嘔吐と下痢、さらに全身痙攣をきたして瞬く間に死に至るため、幕末から明治期には「三日コロリ」「虎列刺(コレラ)」「虎狼痢(コロリ)」「暴瀉病(ぼうしゃびょう)」とよばれて恐れられました。

安政5年(1858)にも流行し、コレラが輸入感染症であることに加えて、この年は日米修好通商条約に代表される安政五カ国条約が調印されたこともあり、多くの人を不安におとしいれ攘夷思想にも拍車をかけました。

この時のコレラは、前年開港したばかりの長崎に入港した米艦ミシシッピー号がシナから日本に持ち込んだもので、一ヶ月のうちに7,000人の死者を出しました。この後さらに人口過密の江戸に飛び火し、8月上旬から蔓延。一ヶ月半だけで江戸の諸寺が扱った死者は238,000人にも及んだといわれます。葬列の棺が昼夜絶えることなく、それは大通りや路地に連なったといいます。さらに、第3次のコレラ流行は1862年で、江戸だけで7万3千人の死者が出ました。

コレラは明治10年にも大流行しました。この時のコレラは、西南戦争からの帰還兵が広めたとも、清国のアモイに流行していたコレラが米艦によって横浜に運ばれたものであるとも言われますが、この年の流行では患者1万4千、死者8千人を出しました。コレラ対策は日本の衛生行政の原点といわれるように、明治政府は衛生、防疫体制の整備を整え、1879年には「虎列刺病予防仮規則(太政官布告第23号)」、80年には「伝染病予防規則(太政官布告第34号)」を公布していきましたが、コッホによるコレラ菌発見は明治16年(1883)まで待たなくてはなりませんから、下記のように日本ではその後も頻繁にコレラが流行しました。

1879(明治12年) 患者数162,000、死亡数 105,000
1882(明治15年) 患者数51,000、死亡 数33,000
1886(明治19年) 患者数155,000、死 亡数108,000
1890(明治23年) 患者数46,000、死亡 数35,000
1895(明治28年) 患者数55,000、死亡数40,000

敬太郎が派遣された高串地区で流行していたコレラは、日本で最大の死亡者を出したときのものです。


当時の高串村は200戸程度の小さな集落でしたが、どうしてこの小さな港でコレラが流行したの今だに分かっていません。高串は当時の特産品のイリコ製造に石炭を使用していたので、石炭船の出入りなどでによってコレラ菌が持ち込まれたのではないかと考えられています。

敬太郎は7月21日には高串入りをしました。そのころの高串のコレラは猛威の頂点にあり、真正患者40名、擬似患者34名、死亡者はすでに9名に達していました。敬太郎は高串に到着、直ちに防疫活動を開始します。コレラの感染を防ぐには、直ちに患者と健康な人との接触を絶つことが必要であると考えた敬太郎は、患者の家の周りに縄を張りめぐらして人々の行き来を禁止しました。また、患者が吐いた物や便所は厳重に消毒させ、生水を使用することも禁止しました。

敬太郎が次に取り組んだのは遺体の埋葬でした。「亡くなった人に触れると感染する」と村人が怯えて遺体に近づかないため、敬太郎は、自分一人で遺体を消毒しし、筵で巻いて背負って海岸に運び、対岸まで船に乗せていき、さらに傾斜の急な坂道を2百メートルも登って丘の上の墓地まで運びました。敬太郎は村内に伝染病の予防や治療のことを教えてまわりましたが、手遅れの患者が薬を飲んでから死んでしまったことから、「毒を飲まされた」と噂され、ある患者などは薬は飲まないといいだしました。敬太郎は、誤解を解くために根気強く話し、その家族よりも親身になって看病もしました。そのような行動は次第に村人の心に浸み込んでいきました。

敬太郎は三昼夜にわたって働き続けました。病人を看護する間に外に出て、のどがかわいたからと言って水がめの水を飲んだので、そばにいた人が「そんな生水を飲まれては、巡査殿もコレラにかかりますよ。」と冗談半分に言うと、「僕がもしこれでコレラになって死んだら、高串全部の病気を背負って行きますよ。」と笑って答えたと伝えられています。

着任して3日目の7月23日の午後3時ごろ、敬太郎は急に気分が悪くなり休憩しましたが、24日午前3時に真正コレラと判明しました。午後1時ごろに来た村役員に「高串のコレラは私が背負って行きますから、ご安心下さい。また、将来も伝染病がこの村に流行しないよう、私が守ります。」と言い残し24日の午後3時、敬太郎は永眠しました。彼の遺体は火葬場と定められた小松島に運ばれ、25日の午後5時に荼毘に付されました。増田敬太郎、享年25歳。巡査拝命後7日目、高串在任4日目のことでした。

敬太郎の遺言どおりコレラは間もなく収まり、高串には再び穏やかな日々が戻ったといいます。


その後、地区の人々は敬太郎の献身的な行為に感謝し、遺骨を分骨してもらい高串地区で一番見晴らしが良い秋葉神社の境内に埋葬しました。最初は石碑・祠が建てられ、10年を経た明治38年に社殿を増築し、増田神社となりました。増田神社は日本で唯一警察官をまつった神社です。毎年7月26日には、敬太郎の遺徳を偲んでび、盛大な祭礼が行われています。警察からは県音楽隊によるパレードが行われ、増田巡査の白馬にまたがった人形を飾った山車を町民が曳き、鯛形の山車も町内を回ります。全国的にも珍しい警察官への感謝を表すお祭りです。

※ 投稿文中の敬称は略していることもございます。


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