核共有は、いま議論すべきでしょうか(10)

9回にわたって綴ってきた「核共有」ですが、これまでピエロは以下のような問いかけをしてきました。

1 核武装による防衛は賢明な手段ではない
2 NATOにおけるドイツのような核共有は日本には転用できないのではないか
3 唯一の被爆国・日本には、核兵器を否定する使命があるのではないか
4 だからといって、旧日本社会党のようなお目出たい防衛論にはとても賛成できない
5 憲法九条が政権側の恣意的な「解釈」で意義付けされるのは普遍性を著しく欠く

第10回は、憲法九条によって否定された「戦力」と「軍隊」を、防衛とどのように紐付けするのか、ということについて考えてみたいと思います。

軍隊なのに軍法がない
前回(9)でみましたように、日本の防衛を担う自衛隊は憲法の規定ではなく憲法条文の「解釈」によってのみその存在が認められています。安倍晋三や橋下徹らが主張する「核共有」論は具体的なオペレーションには言及していませんが、具体的な責を負うのは防衛大臣でも総理大臣でも、ましてや在野の評論家でもなく、兵器操作のプロである「軍人」、つまり自衛隊員です。核使用の決断は国家首脳らによってなされるでしょうが、日々の管理や修理、そして発射準備などの作業を負わされるのは自衛隊員です。

が、その自衛隊員の身分は法的には極めて微妙な位置付けがなされたままです。

戦争映画などに描かれる軍法会議は、今の日本には存在しません。自衛隊という兵力は「解釈」によってのみ存在し軍は存在しませんので軍法(軍刑法)はなく、軍兵を裁く軍法会議も日本にはありません。

自衛隊員が台風や地震などの自然災害などの救助隊として活動している限りにおいては、隊員が法を犯した場合には一般の刑事事件と同様の処置で事足ります。これまで自衛隊員を法的に処罰した例は、すべからく刑事事件としてのものでした。しかし、彼らが兵力の一部として活動した場合はどうでしょう。

「兵力」として海外で活動した例。
1991年 湾岸戦争に際してのペルシャ湾派遣
2001年 米国のアフガニスタン侵攻を受けてのインド洋派遣
2004年 イラク戦争に際してのイラク派遣

PKOとして活動した例。
1992年 カンボジア派遣
1993年 モザンビーク活動(ONUMOZ)
1996年 ゴラン高原派遣
2002年 東ティモール派遣
2007年 ネパール支援団
2008年 スーダン派遣
2010年 東ティモール統合ミッション
2010年 ハイチ派遣

この他にも国際緊急援助隊、難民救援、災害派遣、在外邦人輸送、海賊対策など、自衛隊はこれまでにも実に多くの海外活動をこなしてきました。それらは「兵力」として見なされるもの、あるいはそれに準ずるもの、「兵力」ではないが自衛のために武器を携帯しているものなど、それなりに異なった状況下ですが、幸いにも、ほんとうに幸いにも、戦後77年間に自衛隊員が自ら戦闘行為に従事することは一度もありませんでした。しかし、だからと言って今後もないとは言えませんし、むしろ昨今の日本を取りまく複数の隣国が示すし卑しい挑発行為は、戦闘を誘発する危険が年々深刻になってきたとさえ言えます。

たとえ憲法では認められてはいなくても、自衛隊員は有事となれば命令に従って戦闘行為に従事しなくてはなりません。その際、国を守るため、あるいは海外での人道支援のために働く自衛隊員の命令で行った行為が、敵国兵士を殺傷するケースが生ずるかもしれません。国内法や戦時国際法(非戦闘員および降伏者、捕獲者の保護など)で定められた要件を満たしていれば、敵国兵士を殺傷しても殺人罪や傷害罪に問われることはありません。しかし、要件を満たしていなければ罪に問われることになり、日本の現行制度ではそうした隊員は一般裁判所で裁かれることになります。自身を、そして誰かを護るためにやむを得ずに及んだ行為が、一般の「殺人罪」に問われるかも知れない事態は決して小説の中の一シーンではなく、隣国たちの蛮行によって明日にも現実となるかも知れません。しかし、止む無くそのような行為に及んだ自衛隊員を保護する法律は、今の日本にはありません。

以下のようなケースを想定してみましょう。

場所は北海道の「国後島」。標津町の浜から24キロ先にあるこの島を80年近く違法占拠しているロシアは、今日では陸軍第68軍団隷下の第18機関銃砲兵師団の第46機関銃砲連隊、第228独立高射大隊の1400人ほどの兵力を配備しています。その、司令部は択捉島です。また、国後島に一番近い自衛隊の基地は根室分屯で、標津町から70kmほど離れています。
ある日、根室分屯の隊員が標津町沿岸部をパトロールしていたところ、沖合にロシア船籍が確認され特殊部隊と思われる兵士と大型火器が確認できました。先方もこちらの存在に気づき明らかに攻撃準備の態勢を整え、こちらに銃口を向けて上陸しようと迫ってきました。

世界の常識からすれば、このようなケースでは先制射撃するしかありません。しかし、この国の現行法制下では、明らかに自身や同行隊員に危害が加えられようとしていてもこちらから発砲することはできません。このようなケースでの隊員の行為は、警察官職務執行法だけが準用され、必要な「武器の使用」が認められてはいますが出動自衛官による「武器の使用」は、正当防衛または緊急避難に該当する場合を除き、部隊指揮官の命令によらなければならないとされています。しかし、「武器の使用」を認める正当防衛や緊急避難についてはその規定はありません。(つまり、死の危険にさらされても、その発砲が裁判では正当防衛や緊急避難に該当しないと判断されることも想定されます)

迫るロシア軍を前に、一触即発の国防危機に遭遇した自衛隊員は「武器の使用」が妥当か否かの判断を部隊指揮官に仰がなくてはならず、そして日本の組織論からの通例として、その部隊指揮官はさらなる上官に「発砲」のお伺いをたてるでしょう。しかし、そうしている間にロシア軍は標津町に上陸し、発砲できない自衛隊員の多くは殺傷されることとなります。

繰り返しますが、戦場において、このようなケースでは警告に続く先制射撃によって相手の無力化を試み、自軍の安全を確保することが極めて標準的な対応です。ところがこの国においては、自衛隊員がそれを実行した場合には刑事と民事の両方で訴追される可能性があるのです。

日本国憲法76条第2項には「特別裁判所は、これを設置することができない。行政機関は終審として裁判を行ふことができない。」とありますから、現在の司法システムから独立した軍事裁判所や軍法会議の設置は法的に許されていません。上記ケースにおいて自衛隊員が独断で威嚇射撃をした場合、軍法ではない一般の法律によってしか裁けないのです。

さらに、このケースで敵船舶の操縦をしていた一般人である船員を自衛隊員が誤って射殺してしまった場合(ロシアはきっとそのように主張するでしょう)、その隊員はおそらく刑法第199条『人を殺した者は、死刑又は無期若しくは5年以上の懲役に処する』が適用されて、裁かれるほかないでしょう。

現存する自衛隊を「軍隊」として正しく捉えると、国内において自衛隊の主任務は災害救援ではなく、外敵の侵略からの国の防衛です。自衛隊は、強力な武器を保有しているので、自衛隊に所属する者には、個人・集団として厳正な規律と秩序の維持が絶対に必要です。また、有事に際しての行動を「軍人」として担ってもらうには、自衛隊員による軍事関係や他の犯罪を一般の司法制度とは別の法体系により処理するために、軍法による処理方針を定め、軍法会議で違法行為を処断する措置をとらなくてはなりません。その理由は以下のように説明できると思います。

1. 自衛隊に所属する隊員は、軍事関係その他の犯罪を一般の司法制度とは別の法体系により厳格に処理する軍事司法制度が必要。
2. 軍隊や軍人の違法行為の処断は迅速にする必要があります。一般の裁判のように長期間を要する場合、軍律保持の目的が損なわれることになります。
3. 一般の裁判のような対応で証拠と被疑者、証人の確保などという過程を踏むと作戦行動に支障を来す事態を招来する可能性があります。
4. 違法行為の処断が速やかになされないと、軍人の士気が阻喪し、適切な指揮命令関係が保てなくなるおそれがあります。
5. 軍隊にはその自律性を確保する必要性があります。「自律性」とは、軍事組織が自ら規律を定め、これに違反した組織の構成員を軍事組織自ら処罰して規律を維持することをいいます。

第2次世界大戦の辛酸を体験した日本では、「軍隊」や「防衛」などの課題は戦争トラウマとなって議論さえも忌避される状況が今でも続いています。敗戦から77年経った令和4年の「憲法記念日」においても「憲法九条」を平和の宣託の如く掲げて、憲法改正に異を唱える人たちがTVに映し出されていました。たしかに、法学アカデミズム界では、自衛隊違憲論が主流のようですし、防衛司法制度の問題についても、戦争トラウマからの感情的な反応が朝日新聞などが誘導するマスコミで頻繁に取り上げられてきました。
そのような議論は一般的に、「戦争」に対する拒否感と「軍隊」への反発感情からイデオロギー的なやりとりに終始してきました。繰り返される中国の横暴さやプーチンの暴挙などによって日本を取り巻く環境は著しく変化しました。また、ウクライナで国のために戦う兵士が連日報じられるなかで、自衛隊の任務・役割についても改めて考えさせられる機会が現出しているようにも思われます。そのような現実を考え、自衛隊の規律を保ち、自衛隊員の士気を維持しながら任務を有効的・実効的に果たすために、彼らの後顧の憂いを軽減して不測の事態に十分対応することが可能となるような防衛司法制度の見直しは、喫緊の国民的課題であるとピエロは思います。

「核共有」を議論する前にすべきことは、国防の最前線で自分の命を晒している「軍人」を守るために、そして縛るために、「軍法」の必要性を説かなくてはなりません。