核共有は、いま議論すべきでしょうか (4)

「核共有は、いま議論すべきでしょうか (3)」で見たように、核兵器抑止論は時代とともに変容してゆきました。しかし、米国では核拡散を肯定的に論じる伝統があると言われています。その代表格が核の国際政治理論に多大なる影響を及ぼした政治学者のケネス・ウォルツ(1924〜2013年)です。

「北朝鮮の核と共存可能であることは立証されている。実際のところわれわれは、より好戦的だった以前の北朝鮮よりも好ましいと思うかもしれない。」と『核兵器の拡散』(The Spread of Nuclear Weapons 1981年)で語ったウォルツは、北朝鮮のような「弱小国」は「核強国」よりも抑制的になると考えました。弱小国が核強国に対峙して通常戦力による戦争を仕掛けても大敗北を招くことは明白ですから、弱小国にとって唯一の生残り策は核を保有することとなります。核を持つことによって、相手国は「核が使われる」ことが現実味を帯び、弱小国はそれまでの通常兵器による攻撃やテロ攻撃などによって相手国を抑止する必要がなくなるというわけです。

ウォルツがこのような考えに至ったのは、北朝鮮が核開発に成功して以降、彼らの行動が抑制的になっている事実でした。

都合の悪い出来事はすべからく秘匿する国ですから正確な日付は判らないものの、北朝鮮が具体的に核開発に取り組んだのは1956年3月と9月、旧ソ連との間に原子力開発に関する基本合意を行ってからだとされています。
そして、1986年3月に寧辺を撮影した衛星写真には円筒状クレーターが撮影され、これが原爆開発の証拠となりました。2003年1月10日にNPTから脱退し、2005年2月10日には公式に核兵器の保有宣言を行いました。このような経過と、北朝鮮によるテロ行為の日付を合わせてみましょう。

日本人拉致事件が相次いだのは、1970~80年代です。
大韓民国大統領府「青瓦台」への襲撃未遂事件があったのは1968年1月21日。(脚注 1 
文世光が朴正熙大統領の暗殺計画を実行したのは、1974年8月15日。(脚注 2 
全斗煥大統領一行の暗殺を狙って引き起こされたラングーン事件は、1983年10月9日。(脚注 3 
乗客・乗員115人が全員死亡した大韓航空機爆破事件は、1987年11月29日。(脚注 4 

「大韓航空機爆破事件」以後、北朝鮮の関与が明らかなテロ事件はみられませんが、1996年9月、韓国北東部で北朝鮮の潜水艇が座礁し、乗艦していた武装工作員らが韓国領土内に侵入する事件が発生します。武装工作員の一部は付近の山中で死亡しているのが発見され、また、一部は韓国軍との銃撃戦の末に射殺されました。日本においては、2001年12月18日には、東シナ海における日本の排他的経済水域(EEZ)内において、北朝鮮の工作船である不審船が海上保安庁の巡視船と交戦の末に沈没した事件などがありましたが、その後は不審な動きもありません。

このように、核兵器の保有宣言を行った2005年以降の北朝鮮は「明らかに攻撃的ではなくなっている」というのがウォルツの主張です。

ネオ・リアリズム(あるいは、構造的リアリズム)と呼ばれたウォルツの理論はさらに先鋭的になって、核抑止力が働き平和が維持されるので「核保有国が増えるのはおそらく好都合」という議論にまで発展します。ウォルツは、「全面戦争が回避されてきたのは注目すべきことである。制限された戦争はあったとしても平和が優勢であったことは、変化を吸収するとともに紛争や敵対関係を封じ込めることができる高い機能を有する、大戦後の国際システムの存在を示唆している」と断じました。

その根拠として、「在来型世界においては、生じる恐れのある損害が明確でなく、制限され、不確実であるがゆえ、抑止の脅しに効果はない。一方、核兵器は、軍事的な読み違いを生じがたくするとともに、政治的な予測を容易にするのだ」と論じています。
さらに、「核にまつわる過去を熟考することにより、核保有国が現在の8ヵ国よりも増えれば世界は生き残れるという希望に根拠を見出すことができる」とさえしている。
さらにウォルツは、「白痴でもないかぎりその破壊力を認識できない者はいないのであれば、指導者の「認知」能力を気に病む必要があるだろうか・・・指導者はどうすれば計算違いなどできるのか。成功の確証なしに第一撃に出る国があるとしたら、その国の核兵器の管理にかかわるすべての人間の気が触れなければならないだろう・・・米国自身の大言壮語、あるいはソ連の核戦争遂行についての片言に何か意味はあったのか。政治・軍事・そして学問の分野における強硬派は、核兵器を使用しようとする。あるいは使用すべき条件をイメージしたが、すべて無意味である・・・核兵器は抑止以外の何物も達成することはできない」 とまで言っています。

ウォルツは、ヒトラーですら抑止され得るとして、その根拠を以下のように述べています。

『おびただしい人的・物的損耗がただちにドイツ側に生じさせるような脅威があったなら、ヒトラーは抑止されていただろう。逆にもしヒトラーが抑止されていなかったとしたら、将軍たちはヒトラーの命令に従っただろうか・・・1939年のドイツに抑止が働いたであろうことは容易に想像できるが、もし1945 年にドイツが核能力を保持していたらとしたら、米英ソが進軍してきたときに、それがいかなる結果をもたらそうとも、ヒトラーとその側近が核爆弾を投下したであろうと想像することはたやすい。しかしながら、以下の2つのことがかかる想像を否定するように作用する。それは、いかなる世界にも普遍的に通用することと、核のある世界にのみ通用することである。1つめは、敗北が不可避であるとみられれば、その国の支配者の権威が消滅するであろうことである。45 年初頭、ヒトラーは明らかに毒ガス戦を開始するよう命じたが、将軍らはこれに反応しなかった。もう1つは、いかなる国も核保有国を決定的な敗戦にまで追い込まないであろうことである。敗戦の絶望の中、自暴自棄な手段がとられるかもしれないが、核保有国を自暴自棄にすることは、誰もが絶対にしたくないことである。核保有国に対して無条件降伏を求めることはできない。』

もし世界の指導者が核なき世界を求めて合意するようなことがあったとしたら、「分別のある指導者のいる核保有国はどうするだろうか。その答えは、『欺く』という一語に尽きる」、とウォルツ言います。小型軽量な核兵器は簡単に隠したり動かしたりできるし、核弾頭は小型車や小型船舶に搭載して国境をまたいで移送したりできる。すべての核兵器禁止の取り締まりや強制は不可能なのであるから、各国とも掟破りの誘惑に駆られる。そしてある国が欺くおそれがあることは、他のすべての国がそうする誘因となる、のだそうです。

かつてトーマス・クロンビー・シェリング(米国の経済学者、政治学者)は、「脳外科手術ではあるまいし、兵器やその製造法に関する記憶を消し去ることはできない」(『完全な軍縮における抑止力の役割』)と述べていました。ウォルツは、「たとえ為政者がいかに卑劣で非合理に見えようが、あるいは政府が不安定に見えようが、核兵器を保有する国が、核保有国のみならず他国に大規模な通常戦をしかけることはない。たとえ通常戦力であっても、制御不能になって、核の打ち合いになり得るからだ」と論じました。

核拡散を肯定するような論説はさらにひろがり、ブエノ・デ・メスキータ(米国の国際政治学者)とウィリアム・ハリソン・ライカーは「選択的核拡散のメリット」の中で、「すべての国家が核武装すれば、二国間の紛争が核戦争になる可能性はゼロになる」として、非核国と核を保有する国とが対峙している地域における「選択的」な核の拡散を提唱しいます。
また、ジョン・ジョゼフ・ミアシャイマー(米国の政治学者)も、「核兵器は卓越した抑止力である」と考え、現代において、ドイツ、ウクライナ、日本が核保有国となれば世界はさらに安全になるとまで言明しています。

核兵器の力量を評価していたウォルツでしたが、自分の理論が論理的でないことは認識していました。

「核兵器は,複数国がそれを保持する世界において、決して使用されることはなかった。それでもなお、核保有国に新たな国が加われば何か恐ろしいことが起きるだろうという感覚は容易にはなくならない。1つあるいはそれ以上の国が新たに獲得した核兵器が、冷静に計算された先制攻撃、パニック状態での発射、予防戦争の開始などで使用されるという恐れは依然として存在するのだ。歴史が示すように、核兵器が核戦争を生起しやすくすることはない・・・核兵器が決して使用されないと断言することは誰にもできない。核兵器の使用はいつも可能である。数ヵ国が核兵器を保有する世界において、核兵器が怒りにまかせて使用されることはなかった。われわれは約半世紀にわたって核の平和を享受してきたが、今後もそうである保証は決してない。我々は今後数十年間にわたって、核の平和と核保有国間の通常戦争が抑制されることに感謝するかもしれないが、もし戦争が起きればわれわれは絶滅してしまうという恐れは広く存在する。」

 1:青瓦台襲撃未遂事件
朴正煕大統領と閣僚の暗殺を狙って、1968年1月に、北朝鮮第124部隊第1中隊第1小隊に所属する31名が、韓国軍に変装して韓国領内に侵入した事件。
1月21日、ソウル市内に入ると、持参した日本製の背広とレインコートに着替えて青瓦台800メートル手前の北漢山まで侵入。しかし、韓国領内侵入時に出くわした韓国市民の通報によって警戒中だった韓国当局に検問を受け、その場で自動小銃を乱射して逃亡。韓国軍の2週間に及ぶ掃討作戦により、1名を逮捕、29名が射殺され、1名が自爆した。2名が重傷を負いながら軍事境界線を越えて帰国したという話もある。韓国側は軍人・警察官と巻き添えの民間人の計68名が死亡した。
逮捕されたのは金新朝少尉は、北朝鮮における特殊部隊の存在を自白。金はテレビカメラに向かって「私は朴正煕の首を取りにやってきた」と言い、韓国国民に衝撃を与えた。
当時の韓国大統領・朴正煕(パク・チョンヒ。第18代大統領・朴槿恵大統領の父)は事件直後、「北の奴等が私を殺しにきた。北を攻撃し、2日で平壌まで進める。」と、駐韓アメリカ大使に言い放った。しかし、米国はベトナム戦争の最中で朝鮮半島での新たな軍事行動を起こす余力はなかった。また北朝鮮と同盟関係にあったソ連と直接戦争に至る可能性を考慮し、ジョンソン米国大統領は外交交渉を選んだ。
「われわれは日夜、このようにやられてばかりいるのか。何か方法はないのか。報復する方法はないのか」と考えた朴正煕が創設したのが、金日成暗殺部隊だった。
1968年4月に創設され、通称「684部隊」と呼ばれた部隊は、青瓦台を襲撃した北朝鮮工作員の人数と同じ31人の隊員から構成された。

部隊は仁川沖合の実尾島で訓練を受けていたが、1970年からの南北融和の流れが加速したため、1971年に計画は撤回され、684部隊への待遇は手のひらを返したように悪化。不満が増大した部隊員は、1971年8月23日にバスを乗っ取ってソウル市内に向けて進み、軍・警察との銃撃戦の末に自爆した。同事件は、後に『シルミド』として映画化された。

2: 文世光事件
犯人の文世光は1973年5月、大阪湾に停泊中の北朝鮮の万景峰号の船中で、朝鮮労働党対外連絡部の工作指導員から朴大統領射殺の指令を受けた。犯行に使用する拳銃の入手を香港で失敗したため、1974年7月18日に大阪市中央区の高津派出所で拳銃2丁を盗み、高校時代の知人である日本人女性を利用して女性の夫名義による韓国への偽造ビザや偽造パスポートを作成し韓国に入国。1974年8月15日の犯行当日は、日本政府高官になりすまして記念式典会場である南山の国立劇場に潜入。
午前10時に式典が始まって20分ほど経過したとき、文世光は腰に隠した拳銃を抜こうとしたが誤って引き金に触れ、自分の左側の太股に貫通傷を負うが、その時の銃声はスピーカーの音で消され周囲に気付くものはいなかった。負傷しながらも文世光は客席から立ち上がって通路を走り、20m先の壇上に向け2発目の弾を発砲。朴大統領はとっさに身を隠して難を逃れたが、立て続けに撃った4発目の弾が椅子に座っていた陸英修夫人の脊髄に命中。夫人はソウル大学付属病院に搬送されるも死去。また、式典に合唱団の一員として参加していた女子高生の張峰華(当時17歳)が、警護員が文世光に向けて射撃した際の流れ弾に当たって死亡した。
12月20日にソウル拘置所において死刑執行。文世光は遺言として次のような詫びを述べたという。

「私が愚かでした。韓国で生まれたらこんな犯罪は犯していないでしょう。朴大統領に心から申し訳なく思うと伝えて下さい。国民にも申し訳なく思うと伝えて下さい。陸夫人と死亡した女子生徒の冥福をあの世に逝っても祈ります。朝鮮総連に騙されて、大きな過ちを犯した私は愚かであり、死刑に処せられて然るべきです」と涙ながらに最後の言葉を録音で残し、家族に対しては「母には、息子の不孝と期待に背いたことを申し訳なく思うと伝えて下さい。」
なお、文に狙撃を指令し、資金を供与、偽装パスポートの作成指示、射撃訓練などの一連のサポートをしたのは、大阪の在日本朝鮮人総聯合会(朝鮮総連)生野支部政治部長の金浩龍(キム・ホヨン)だったことが明らかになっている。また、事件発生当時は、日本人犯行説も流れている。

 3:ラングーン事件
韓国は、1988年のソウルオリンピック招致に成功したが、東側諸国や北朝鮮と親密だった非同盟中立諸国は、オリンピック参加を表明しておらず、前回のロサンゼルスオリンピック同様に、これらの国家が不参加となる可能性があった。このため韓国政府は、これらの国々に閣僚を派遣して参加を説得して回っていた。その中で、1982年8月に行われたアフリカ諸国歴訪は、北朝鮮を外交的に孤立させてしまう可能性があり、金日成主席を苛立たせていた。金日成は全斗煥の暗殺を計画するも、ソ連のブレジネフ政権の承諾が得られずに断念。しかし、1982年11月にブレジネフが死去し、対アメリカ強硬派であるユーリ・アンドロポフがソ連共産党中央委員会書記長に就任すると、北朝鮮への積極的支援を約束すると、金日成は偵察局第711部隊に命じ、全斗煥の暗殺を実行に移した。この計画の立案は、金日成の長男である金正日であるといわれている。
1983年10月に、キム・ジンス少佐ら3人がラングーンへ入り、大統領一行が訪れるアウンサン廟の屋根裏に、遠隔操作式のクレイモア地雷を仕掛けた。
同日午前10時25分、全斗煥よりも一歩先に現地に到着した駐ビルマ韓国特命全権大使の車を全斗煥大統領の自動車と間違えた実行犯は、遠隔操作によって地雷を爆発させる。21名が爆死、負傷者は47名に及んだ。全斗煥自身は、到着が2分遅れたため危うく難を逃れた。
ビルマ警察の調査と追跡により、北朝鮮工作員3名は銃撃戦の末、キム上尉は射殺、他の2名が重傷を負った。2人は警察に対して作戦の全貌を自供したため、ビルマ政府は犯行を北朝鮮によるものと断定、北朝鮮によるテロリズムという結論が国際的に認知されることとなる。

 4:大韓航空機爆破事件
事件に遭ったのは大韓航空858便。1987年11月29日現地時間午後11時30分にイラク・バグダッドのサダム国際空港を出発し、UAEアブダビ国際空港、タイ・バンコク国際空港を経由し、韓国・金浦国際空港に向かう予定であった。乗員は11名、乗客は104名であり、乗客のほとんどが中近東への出稼ぎから帰国する韓国人労働者であったという。アブダビを午前0時01分に離陸、4時間半後の現地時間午前10時31分にビルマの航空管制空域に差し掛かった。ラングーンから南約220kmの地点で、午前11時22分に旅客機内で爆弾が炸裂し機体は空中分解し墜落した。現地の漁船によって救命筏や機体の部品、乗客の手荷物と遺体、バラバラになった機体の一部などが偶発的に回収された。これらにボーイング707と確認できる残骸でありそれが大韓航空858便であることは明らかであったが、ブラックボックスは発見できなかった。事件から3年後の1990年3月10日、海底から回収した胴体上部外板一部にソウルオリンピックのエンブレムが記され、これが858便の残骸と断定され、ようやく事故機体であることが確された。インド航空182便爆破事件など他の多くの空中分解事故のケースと同様に、遺体に完全なものは1人も発見されず、わずかに回収された遺体の一部によってDNA解析され身元が判明した。回収された救命筏などの残骸の多くは高温に晒され強い衝撃を受けた痕跡があり、爆弾起爆から着水までに機体の大半が火炎に包まれていたことを裏付けていた。

事件直前、バグダードで搭乗して経由地のアブダビ空港で降機した乗客は15人いたが、その中に東アジア系の男女が1人ずついた。この2名は、日本のパスポートを持っており、旅券名義は「蜂谷真一」と「蜂谷真由美」。韓国側も搭乗名簿から、この「日本国旅券」を持つ2人が事件に関与したと疑っていた。一方、事件直前の1987年11月21日、偽造パスポートを所持していた罪により東京で逮捕された日本赤軍の丸岡修は、翌年にせまったソウルオリンピックを妨害するためにソウル行きを計画していたことが明らかになっており、中東を本拠地とする日本赤軍の事件への関与も疑われていた。
「蜂谷真一」と「蜂谷真由美」の2名は、バーレーンの空港でローマ行きの飛行機に乗り換えようとしていたところを日本大使館員とバーレーンの警察官が確保。日本大使館に身柄拘束権が無かったため、同国の入管管理局に通報し、警察官に引き渡した。空港内で事情聴取しようとした時、男は煙草を吸うふりをして、口の中に忍ばせていた青酸カリ入りのカプセルを噛み砕いて服毒自殺。現場に居た日本人外交官、砂川昌順によれば、女はマールボロに隠された青酸系毒薬のアンプルを警察官から奪い取り自殺を図ったが、すぐに警察官が飛びかかり直ちに吐き出させたため未遂に終わったという。

「蜂谷真由美」名義の女は一命を取りとめた一方、自殺した男が所持していたパスポートの名義の男性は東京都在住の実在する人物であったが、後に在日朝鮮人の補助工作員であったことが判明する。パスポートが偽造されたものであることが明確になるにつれ、事件への北朝鮮の関与が疑われるようになった。バーレーン警察による取り調べが行われた後、国籍も姓名も割り出せないまま「蜂谷真由美」名義の女の身柄は12月15日に韓国へ引き渡された。が、ソウルに移送されることだけは避けたいと考えて中国人になりすまそうとし、中国の黒竜江省出身の「百華恵」であると供述、容疑を否認し続けた。しかし、捜査員に夜のソウル特別市街へ連れ出された際、北朝鮮の説明とは全く異なる韓国の繁栄ぶりに驚愕し、ついに自分が朝鮮労働党・中央委員会調査部所属の特殊工作員、金賢姫であると自白し、航空機爆破の犯行を自供した。金賢姫は平壌外国語大学日本語科に在籍中に北朝鮮の工作員として召喚され、日本から北朝鮮により拉致されたとされる日本人女性(田口八重子さんとみられている)に日本語教育や日本文化の教育を受け、蜂谷真由美という日本人名を使用して日本人になりすましていた。
金賢姫は、2010年7月20日、民主党政権下で日本国政府のチャーター機で訪日が実現。滞在場所として、鳩山由紀夫前首相の軽井沢別荘が選ばれた。超法規的措置判断での日本入国や関越自動車道等の封鎖、ヘリコプターによる遊覧飛行などのいわゆる要人待遇は、当時野党であった自民党、公明党から強く非難された。