核共有は、いま議論すべきでしょうか (8)
NPT 核兵器の不拡散に関する条約
世界191カ国が加盟しているNPT条約の冒頭は、以下のような文言ではじまっています。
『この条約を締結する国は、核戦争が全人類に惨害をもたらすものであり、したがつて、このような戦争の危険を回避するためにあらゆる努力を払い、及び人民の安全を保障するための措置をとることが必要であることを考慮し、核兵器の拡散が核戦争の危険を著しく増大させるものであることを信じ、核兵器の一層広範にわたる分散の防止に関する協定を締結することを要請する国際連合総会の諸決議に従い、平和的な原子力活動に対する国際原子力機関の保障措置の適用を容易にすることについて協力することを約束』
最小でも6000万人が亡くなった第二次世界大戦の悲惨な経験から、そして広島・長崎の惨禍が再びもたらされないようにと、このNPTは1968年7月に署名のために開放され、1970年3月に発効しました。日本は1970年2月に署名しています。2022年1月現在、未加入はインド、パキスタン、イスラエル及び南スーダンのみで、北朝鮮でさえ加入している世界で最も多くの国が署名している条約です。
「核戦争は全人類に惨害をもたらすもの」「核兵器の拡散が核戦争の危険を著しく増大させるもの」という認識にたって核兵器を抑え込もうとする意思表示は、人間だけがもっている残忍性を理性によって留めようとする試みです。NPT加盟国であっても国連常任理事国5か国は、その後も核兵器の開発と増産を進めていますから自家撞着の噴飯ものではありますが、それでも人類の理想を条約という形で表出していることに、ピエロは素直に評価したいと思います。
しかし、高邁な人類の理想を夢物語として貶めて嘲笑しようとする輩は何時の時代にも、どこにも存在するようで、安倍晋三や橋下徹、高市早苗などの核装備推進派たちは、理性や理想を「現実」というたったの二文字で押しつぶそうとしているかのようです。彼らは日本の安全を言い立てているようようですが、実は日本人の品格と日本国の世界における使命を喪失させようとしているようにピエロには思えます。
日本は、核攻撃の実体験をもつ唯一の国です。あの日から77年も経つのに、日本は今もなお癌や白血病で苦しむ被爆者たちと共に生きる人類でただ一つの集団です。いうならば、この国は、最悪の人間の残虐性を世界へ物理的に示すことで、人類がいずれは英知と勇気をもって「核」への妄想を拭い去れるということを証明するために存在している、ともいえるのではないでしょうか。
文化 素養 品格
橋下徹は、プレジデント社の公式メールマガジン「橋下徹の『問題解決の授業』」(2017年12月19日配信)のなかで、今の世界は「(核兵器を)持った者勝ち」で、国連常任理事国5か国だけに与えられている核保有に合理的な説明はできない。そして、遅々として進まない国連改革や核廃絶については「きれいな理想を唱えても核保有5大国は動かない」として、非核保有国がこぞって「このままなら、核を持たない俺たちも一斉に核保有するぞ!」と、5大国に対して緊張感を高めていくしかないと自論を展開しました。
彼のこの議論には大きな矛盾があります。言論が言論の枠に収まっている場合は、一時的な興味を引いてもほどなく人々の記憶からは薄れてゆきます。言論が力を発揮するには、言葉が行動に変容しなくてはなりませんから、橋下徹の「核を持たない俺たちも一斉に核保有するぞ!」という言論は、その実効性を求めるためにどこかの国が「核保有」を現実化させねばなりません。でなくてはこの脅しに似た台詞は、彼が言う『相手が嫌がることを突かず「国連の抜本改革!」「核兵器禁止!」などと叫んだところで、5大国に対しては屁のつっぱりにもならない』ことと大差ない結末となってしまい、彼が得意とする論理は「屁のつっぱりにも」なりません。
さらに、橋下徹はこの自論を展開させるのは「今は核を持たない国が一致団結して核保有に向けて動き出すぞ! それくらいの技術や金は核を持たない国も十分に持っているぞ! その中心は日本だ!」と言っています。つまり、核軍縮を身のあるものにするには、非核保有国の先陣をきって日本が核武装をすべきであると、断言しています。
小泉純一郎のように政治的訴求を短いフレーズにして放つ橋下徹は、マスコミが生んだ「モンスター」と言われます。
このモンスターの文化度を理解する面白いエピソードがあります。
2017年10月26日に国立文楽劇場で『曽根崎心中』を観劇した後、当時大阪市長だった橋下徹は「つまらない。二度と見に行かない」「ラストシーンがあっさりしすぎ」「人形劇なのに(人形遣いの)顔が見えるのは腑に落ちない」と発言し、最終的に文楽協会への補助金をカットしたことでも知られます。(ちなみに、彼は続いて大阪センチュリー交響楽団への補助金もカットしました)
人形浄瑠璃文楽は、ユネスコにより2003年(平成15年)に「人類の口承及び無形遺産に関する傑作」として宣言され、2008年(平成20年)に「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」に記載されていますが、橋下徹の文化レベルは「面白いか、面白くないか」だけが判断基準であり、しかもその拠り所は吉○○業のお笑い程度の「面白さ」です。江戸の昔から続く伝統芸能への造詣が全くないことは「人形劇なのに(人形遣いの)顔が見えるのは腑に落ちない」という感想にも明らかです。これは「オペラなのにオーケストラが見えるのは腑に落ちない」と言っているのと同じで、教養としての文化があれば逆立ちしても発せられる言葉ではありません。
このエピソードについて瀬戸内寂聴尼には、「橋下さんは一度だけ文楽を見てつまらないと言ったそうですが、何度も見たらいい。それでも分からない時は、口をつぐんでいるもの。自分にセンスがないと知られるのは恥ずかしいことですから」と揶揄されたそうですが、この時ばかりはピエロも瀬戸内寂聴に拍手喝采を送りました。(この揶揄に橋下は、「瀬戸内さんこそセンスがない」と応酬しました)
今でこそルペンなどという極右翼が大統領選で存在感を示すようなフランスですが、ピエロが住んでいた時代のフランスは、教養や文化のない政治家は極めて特異な政治感覚をもつ市民を除いて一顧だにされませんでした。第20第フランス大統領を務めたヴァレリー・ジスカール・デスタンなどは、大統領を退いてからはフランス学士院(アカデミー・フランセーズ)会員に選ばれるほどの教養豊かな人物でした。彼の選挙演説を生で聴いた経験のあるピエロは、言葉の存在観に驚いたものでした。しかしこの日本では、他国大統領の前でプレスリーの真似をしてみたり、漫画が大好きと公言して中学生でも知っている漢字を読めない人物が首相になれる政治環境ですから、「モンスター」が知事になったりTVで自論を開陳することに視聴者に違和感は無いのかもしれません。
三木清は「人類的意義を有する文化は個人の良心的な活動を媒介として民族のうちに生れる」『全体と個人』と言っていますし、フリードリヒ・マイネッケも「歴史とは、文化史以外のなにものでもない。」『国家と個性』と書いています。文化は国家や民族の背骨のようなもので、無くても軟体動物のように生きては行けますが、誇りや感受性は低くく、そして人生が貧しくなることは避けられません。ピエロが言っている「文化」とは、伝統文化や古典芸術などへの造詣だけを指しているのではありません。広く芸術的なものに触れることで養われる人間の心の「優しさ」をも含んだ人間性の止揚のことを意味しています。「文化はユートピア」と南原繁は言いましたが、理想を掲げない人間集団は文化レベルの低い企業と同じで、長生きできないものなのだと思います。
「面白くない」と言って伝統文化を切り捨てる「モンスター」に、国家を語る資格があるのかピエロは甚だ疑問なのです。