ピエロのつれづれ

核共有は、いま議論すべきでしょうか(2)

食料より核兵器
たとえどんなに貧しくとも、「核抑止力」こそが国是であるとしたのは何といってもお隣さんでしょう。

中国は、自国で最初の原爆実験を行う前年の1963年、自国の独立を保障するための最重要政策手段は核兵器であるとの前提にたって、当時の外交部長の陳毅(チェン・イー)はこう述べました。
「中国人はたとえズボンをはかなくても、核兵器をつくってみせる。米帝国主義の核恫喝の前で土下座することはない。」

1960年前後の中国は第二次五ケ年計画の真っただ中で、毛沢東が当時世界第2位の経済大国だったイギリスを追い越す目標を立てて、急進的な農工業の増産運動を命じた頃でした。それは「大躍進政策」と呼ばれ、例えば鉄鋼生産の拡大に向けて農村に粘土で釜を築いて鉄を溶かして鋼鉄を造るという「土法高炉」による鉄鋼が製造されていました。(ところが、こんな工法では粗悪な鉄鋼しか造れませんでしたし、粗末な炉に燃料の石炭を大量に使ったために本来の工場での燃料が不足して生産が停滞するという二重の逆効果をもたらしました)。

急速にすすむ工業化のこの時代は、同時に大規模な飢餓の時代でもありました。1982年の中国国勢調査をもとにした推定では、1959年から1961年の間の餓死者数は1600万から2700万であろうとしています。
1966年の文化大革命で紅衛兵となった張承志の回想があります。
「1960年前後、中国は全国にわたって三年に及ぶ恐るべき飢饉に見舞われた。飢饉は、首都北京にも容赦なく襲いかかった。学校では体育の時間が無くなり、授業も最低限まで圧縮された。人々はみな、肉のようでもあり、凍ったあとでとけて柔らかくなった果物のようでもある代用食を食べた。私が通っていた北京第61中学では、友達が持ってくる弁当でいちばん贅沢なのが煮た大豆だった。どの家でも簡単な秤を造り、一人分ずつの主食を計ってそれぞれが別に煮て食べた。おとなは自分の分をへずって子どもたちに少しでも多く食べさせようとした。母は、栄養失調でからだ中にむくみが出た……」(張承志『紅衛兵の時代』岩波新書)

文字通り塗炭の苦しみに喘ぐ国民の安寧よりも毛沢東が最優先したのが「核兵器」の製造でした。こうした態度は隣国にも波及してゆきます。

1965年のパキスタン、ブット人民党党首:「インドが核兵器を持てば、国家の名誉を守るためにわれわれは草や葉を食べても核兵器を持つ。」
2017年の北朝鮮、労働新聞:「米国が制裁ごときで民族の命であり国の宝である我々の核抑止力を奪えると思うのなら、それ以上の妄想はない。」

貧しい国にとっての核兵器は、費用対効果の高い武器という側面もありました。
1㎢に広がった敵を殲滅するのに必要な通常兵器のコストは2000ドルであるのに比して、核兵器ではわずかに800ドルですみ、化学兵器に至っては40ドル、生物兵器ではわずかに1ドルで済むという試算があります。(THE CENTER FOR THE STUDY OF BIOTERRORISM & EMERGING INFECTIONS (CSB&EI) Saint Louis University School of Public Health, 2001)
実際、シャリフ・パキスタン首相も「低レベルの核抑止は南アジアの平和と安定への最も安価な選択である」とその効果を強調しています。

核抑止力の歴史
核抑止力論は、アメリカとロシアの対立から生まれたものです。その時代背景と内容を概観してみます。

「核抑止力」を論議の俎上に乗せたのは、米国の国際政治学者、軍事戦略家だったバーナード・ブロディ(1910-1978)でした。
第二次世界大戦中はアメリカ海軍作戦本部に勤務したブロディが、戦後に米国国防大学(National War College, Washington)で邂逅したのが国際問題部次長だったジョージ・ケナン(脚注 1 )です。ケナンは米国務省政策企画局長を務めた外交官、外交史家で、「モスクワからの長文電報」や「ソ連の行動の源泉」(2編の要旨は注1に記載)で知られ、第二次世界大戦直後からソ連の真意を見抜き、米国をはじめとする西側の対ソ連対応に決定的な指針を与えた人です。そのケナンに多大な影響を及ぼしたのがブロディでした。

「米国のクラウゼヴィッツ」、「核戦略の創始者」と称されるブロディの構築した抑止に基づく戦略理論は現在の安全保障学の研究の基礎となっています。彼は1910年にロシア帝国から米国に移り住んだユダヤ人家庭に生まれ育ち、1940年にシカゴ大学で政治学の研究で博士号を取得しています。

ブロディは、各国が核兵器を保有する時代に備えるべき戦争とは限定戦争であり、国家の防衛予算は限られた資源をどのような武器の開発にどのように配分するかが重量な戦略になると考えました。それまでの戦略研究は、平時における軍事力の費用分析を重視してこなかったために、安全保障の名の基に際限のない予算要求がなされるという状況があり、彼の理論はそうした場当たり的な対応に警告を発するものでした。他の政策と同じように軍事力も経済力によって支えられているものという経済的な視点から、ブロディは戦略を捉えていました。「長期にわたる国家の軍事的安全保障が健全な経済を必要とすることは明白な事実であり、この健全な経済のために軍事的安全保障も負担を背負わなければならない」(ミサイル時代の戦略 1959年)

このようなブロディの背骨となってものは1949年に著された『アブソルート・ウエポン(絶対兵器)』に記されています。原爆が投下されたヒロシマ、ナガサキの結果について考えた彼の結論は、「これまでの軍の主要任務は戦争に勝利することであった。しかし、これからはその主要任務は戦争を回避することである。」というものでした。

そして、この本の中心となっている理論が「抑止」です。
核爆弾は二度も日本で使われた。もしもこれから、核爆弾が使われることがあるとすれば、どのような理由なのかを考え抜いたブロディの結論がデターランス deterrence(制止)、というものでした。デターランスは刑事学の用語で、殺人を起こさせないために死刑罪を設置することでデター deter(思い止まらせる)するという意味合いがありました。このような考え方をブロディーは、軍事戦略に流用したのです。これが、今日の核兵器抑止理論の基本になりました。
核兵器に対する抑止がこれまでの兵器とまったく違う革新的なものだったのは、ヒロシマ、ナガサキの惨状から人類が実際に目にした核兵器を使用することに対する嫌悪と躊躇からだったと言えるでしょう。一度手にしてしまった悪魔の兵器を元に戻すことが叶わない国際政治では、この「抑止」という姿勢をやむなく最高の戦略目標とするしかなかったのでした。

このような核戦略に対する考えを持っていたブロディを通じて、ジョージ・ケナンは核兵器の登場によって軍事政策の変容は避けられず、軍事力は抑止力として優先的に検討すべきことを強く認識するようになります。核兵器の時代では、もやは総力戦としての戦争は不可能なのであり、より慎重かつより限定的な軍事戦略の再考がアメリカに必要となってきたのでした。
ケナンが大切にしていたコンセプトは二つです。
一つは「総力戦のドクトリンは、19世紀と20世紀のドクトリンであったということ。われわれは今、18世紀に広く浸透していた限定戦争のコンセプトへと転換しなければならない」、ということ。
いま一つは、「自らに対して向けられた彼らの使用に対する報復以外には、われわれが原子力兵器を使用することを決して望むべきではないし、またその使用についても考えるべきではない」ということ。

ケナンは後に「総合的な抑止戦略」ということを提唱しています。
それは、「軍事力の最大の価値は、抑止力としてのその性質にある」という立場を取りながら、核兵器や強力な軍事力に過度に依存することなく、アメリカの援助政策や文化外交、道義的な力などを含んだ包括的な戦略の遂行が大切であることを意味しています。そして、1950年1月の国務長官宛覚書でケナンは、核兵器は抑止と報復のための手段としてのみ最低限度の保有にとどめるべき、と断じていました。


 1:ジョージ・ケナン
George Frost Kennan: 1904年ウィスコンシン州ミルウォーキーに生まれる。1925年プリンストン大学を卒業しロースクールへの進学を目指したが、高額な学費により諦める。1929~31年ベルリン大学でロシア語、ロシア史を学ぶ。1945~46年モスクワ大使館付参事官(下段「モスクワからの長文電報」を参照)、1947~49年国務省政策企画委員長、1949~50年国務省顧問。1952年から駐ソビエト連邦大使に就くが、ナチス・ドイツとソ連を比較した発言によってソ連からの批判を受けソ連大使を解かれる。翌1953年には国務省も辞職。『フォーリン・アフェアーズ』(Foreign Affairs)誌1947年7月号に”X”という署名で「ソ連の行動の源泉」(The Sources of Soviet Conduct)と題して、ソ連の膨張主義的傾向を阻止する政策を発表。この論文はケナンの名を世界に知らしめることとなり、対ソ連封じ込め政策(containment policy)冷戦時代におけるアメリカ外交の大原則となるだけでなく西側諸国全体の対外政策の基本原理となった。1951年シカゴ大学、1957~58年オックスフォード大学、1960、1966~70年ハーバード大学で教鞭をとった。ロシア語だけでなくドイツ語、フランス語、ポーランド語、チェコ語、ポルトガル語、ノルウェー語に通じていた。2005年3月17日に101歳でニュージャージー州プリンストンで死去。

ケナンのモスクワからの長文電報(1946年2月22日) 要旨
当時のソ連の膨張意欲を見抜き、米国が西側への関与を強めることでソ連拡大を阻止すべきだと電報で訴えたもの。これは後の外交戦略の主軸となるソ連封じ込め政策に大きな影響を与えた。
余談だが、ケナンのこの電報はある偶然から生まれたもの。終戦後のソ連の態度を判断しかねたアメリカ財務省は、クレムリンが何を考えているのか在モスクワ大使館の見解を求めました。しかし、当時の大使ハリマンは不在。公使参事官だったケナンは風邪をこじらせて寝込んでいましたが、長年蓄積してきた見解をワシントンに直訴するのは今だとばかりに、秘書に口述筆記させたのがこのレポートでした。

・ソビエト権力は、ヒトラー・ドイツの権力ほどには計画的でもなければ、冒険的でもない。それは、決まった計画によって動くわけではない。それは不必要な危険を冒さない。それは、理性の論理に鈍感なくせに、力の論理にはきわめて敏感である。それゆえ、どんな場合でも、強力な抵抗に出合えば、容易に後退することができるし、またたいていはそうする。こうして、もし相手が十分な力を持ち、その力を用いる用意があることを明確に示すならば、実際にはめったにそれを用いる必要はなくなる。こうしてもし状況が正しく処理されていれば威信をかけた対決の必要はないのである。
・西側世界全体と対比すると、ソビエトは依然としてはるかに弱体な勢力である。それゆえ、彼らの成功は、西側世界がどの程度まで結束と断固たる意志と気力を発揮しうるかに、まさにかかっている。そして、これは、われわれの力で影響を与えることのできる要素なのである。
・ソビエト安全保障圏から一歩外へ出ると、すべてのソビエトの宣伝は、基本的に否定的で破壊的である。だから賢明で真に建設的な計画をもってすれば、それと戦うことは比 較的容易であろう。

このような理由で、私は、われわれがロシアといかに付き合うべきかという問題を平静に、善意をもって処理できると思う。この処理をいかに行うべきかについて、私は結論として、以下の意見を示したいと思う。
多くの点がわれわれ自身の社会の健全さと活力にかかっている。国際共産主義は病気の細胞組織の上にのみ繁殖する悪性の寄生菌のようなものだ。・・・われわれ自身の社会の内部問題を解決し、われわれ自身の国民の自信と規律と士気と共同意識を高めることは、幾千の外交覚書や共同コミュニケにも匹敵するはどのモスクワへの外交的勝利である。
われわれは、過去においてわれわれが示してきたものよりも、さらに望ましい形の、はるかに積極的で建設的な世界像を作り上げ、他国に示さなければならない。多くの外国国民が、少なくともヨーロッパでは、過去の経験にうみ疲れ、恐がっており、深遠な自由というものには安全問題よりも薄い関心しか持っていない。彼らは、責任よりも指導を求めている。われわれはロシアがこれらの外国国民に与えるよりも立派に指導を与えることができなければならない。そして、もしわれわれが、それをしなければロシアがかならずそれをやるだろう。

「ソ連の行動の源泉」(1947年) 要旨
ソビエトの外交は敵対勢力に対しナポレオンやヒトラーより敏感であり、敵が強すぎると考えた場合には外交各部門で妥協するし、力の論理とレトリックという点では合理的な動きをみせるのである。だが他方でソビエトを簡単にうち負かすことはできないし、敵対勢力(西側)が一度勝利したぐらいでは意気消沈することもない。

アメリカが近い将来ソビエトの体制との政治的親近感を感じられるようになると想定するのは不可能である。アメリカはソビエトのことを今後も政治領域におけるパートナーではなく、ライバルとみなす必要がある。ソビエトの政策から判断しても、彼らは平和と安定へのこだわりを持っているわけではないし、社会主義世界と資本主義世界が永久に幸福に共存しえるという可能性をまったく信じておらず、むしろライバル勢力の影響力と力のすべてを弱めて破壊するために、慎重かつ執拗に圧力をかけるつもりであるのは明らかで、この点でもわれわれはこれまでの認識を維持すべきである。

自分たち(アメリカ人)が自らの目的が何であるかを認識し、国内問題にうまく対応し、世界の大国としての責任をうまく果たし、このイデオロギー時代にあって独自の精神的な強さを持つ国家であることを、世界の人々に印象づけられるかが大切である。われわれはそうした印象を世界の人々に与え、その印象を維持できるように務めるべきで、そのようにできれば、(世界の人々は)ソビエト共産主義の目的が不毛で非現実的であるとみなすようになり、モスクワの支持者たちの期待や熱狂は廃れ、クレムリンの外交政策にさらなる圧力をかけることができるだろう。

アメリカが単独で、共産主義運動の生死を決定するような影響力を行使でき、ソビエトの権力を早い段階で打倒できると考えるのは行き過ぎである。しかしアメリカは、ソビエトの政策にかなりの制約を課す力を持ち、クレムリンが最近数年間よりは遥かに穏健で慎重な態度をとらざるをえないような環境を作り出すことができる。そうすることで、最終的にはソビエトが権力の分裂か段階的な溶解を受け入れざるを得ないような潮流を強化できる。

※ 投稿文中の敬称は略していることもございます。


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