ピエロのつれづれ

高報酬で良質の議員を呼び込めるのか

「石川県発展のため、我田引水の思いで取り組む。」 
東京大学を卒業して建設官僚となり、1986年に石川県選出の参議院議員になった沓掛哲男が、地元金沢市で開かれた森喜朗の自民党政調会長就任祝賀会で述べた挨拶です。

「我田引水」の類語は、「自己中心」「自分勝手」「得手勝手」「利己主義」「私腹」「わがまま」「私欲」。
他人のことを考慮せずに、物事を自分の都合のいいように言ったり行動して自身の利益になるように働きかけることはサルワカです。国会議員が憚ることなく地元後援者に向かって「我田引水」と公言できるほどに、この国の政治家と支援者の繋がりは企業間相互の利益誘導と何ら変わりがないようです。

政財のこうした「金と権力」の繋がりは、この日本が明治維新として近代化へ歩み始めた時から止むことなく続いています。日本初の汚職事件として知られているのは、明治5年(1872年)に山縣有朋が関わった「山城屋和助事件」(脚注 1 )。150年も前の話ですが、権力にすり寄る「金」と「金」に靡く権力の基本的な関係は山縣の時代と同じように今も続いています。「権力」にすり寄るだけの「金」も持ち合わせず、「金」に靡くだけの「権力」もなかったただの老生ピエロには、そんなオイシイ話はとんとありませんでした。

加藤栄一の「日本人の行政 ― ウチのルール (自治選書 1980年)」には、
『権力をもった政府は、日本人にとって自己と敵対するものではなく、父親のような敬愛すべき、かつ頼るべき存在であった』
とありあますが、ピエロは政府を愛したことなぞかりそめにもありませんが、日本人が政治や政治家を「お上」と表現し、逆らえない存在として諦めてきたことは否めません。半数を超える有権者が選挙の度に投票しますが、だからと言ってその投票行動が政治を監視したり不正や彼らの奢りを弾劾したりすることに繋がってはいません。岸信介時代の安保闘争や1970年代の学生運動などで大衆が行動したこともありましたが、いずれも単発の花火で終わっています。ピエロのように新聞への投書などで見られる批判は、感情的発露や批評の域を出ることはありません。

政治に積極的に関わろうとしない日本人の性質は、この国の宗教に影響されているのだそうです。
といってもそれは米国の共和党とキリスト教徒というような直接的な関係ではなく、いわば習俗のようなもの。日本に広く伝播した仏教はその多くの宗派が現世利益を説きます。神仏を拝むことでこの世での無病息災、得財といったラッキーが与えられると思われています。
政治や政治家をこれに当てはめると、投票して当選した政治家が自分や地域に具体的な「ご利益」をもたらすのはごく当たり前の見返りと考えられています。選挙民から言えば「政治(家)への甘え」ですし、政治家から見れば「投票への返礼」は欠かすことのできない次回当選を期する必須の手段であるこのような仕組みは、日本の伝統的な相互扶助としての社会秩序を形成しているとさえ言えます。

米国哲学者であり言語哲学者でもあるエイヴラム・ノーム・チョムスキー(Avram Noam Chomsky)は、「メディア・コントロール」の中で、こう述べています。

『民主主義に関する一つの概念は、一般の人々が自分たちの問題を自分たちで考え、その決定にそれなりの影響を及ぼさせる手段をもっていて、情報へのアクセスが開かれている環境にある社会ということである。しかし、現在優勢な民主主義社会のもう一つの概念は、一般の人々を彼ら自身の問題に決して関わらせてはならず、情報へのアクセスは一部の人間の間だけで厳重に管理しておかねばならないとする社会である。』として、後者を観客民主主義と名づけました。

1988年(昭和63年)6月18日に発覚したリクルート事件でも、1976年2月のロッキード事件でも、さらには2018年7月に発覚した文部科学省官僚による東京医科大学への不正入学でも、マスコミは沸騰したように騒ぎ立て、世論も怒りを表しましたが、いずれのケースでも人の噂も七十五日。遣り場のない怒りはいつの間にか世事の中で薄まり、抜け毛のように飛んでいってしまいます。こうした伝統的記憶障害に日本人自身も気づいていますが、それは海外から見ると世界では珍しい日本人の特性として捉えられてしまいます。

1992年暮れ、東京佐川急便から5億円のヤミ献金の賄賂に対する金丸信への罰金わずか20万円という呆れたニュースに、ピエロも抱腹絶倒、呵々大笑しました。自民党副総裁を結局は議員辞職したのですが、このニュースを受けてオーストラリアの”Sidney Morning Herald”紙の社説は「The fall of the Shadow Shogun」と題してこう書きました。

「日本でおこる政治スキャンダルは海から寄せる波のようです。ゆっくりと浜辺に近づいてきて、やがて人々の面前で劇的にはじけます。そして、何事もなかったように引いてゆきます。」

5億円が20万円ですむなら、20kmのスピード違反は6円で勘弁してもらえるのに、ピエロのスピード違反が減額されることは絶対にありませんし、青色申告に接待費がすこし多いだけで税務署は目を剥いてやってきます。金丸信がどれだけ破廉恥であっても、政治家の強欲さと厚顔無恥を何度見ても、波が引いてゆくようにピエロもすぐに忘れてしまうのです。

野党議員なども、繰り返されるこうした不祥事に対して批判をし論評を発するのですが、彼らだって観客席に居座ったままでグランドに降りてこようとはしません。具体案もなし、行動もなし、本質を見ずに揚げ足取りに終始してマスコミ受けを狙った知力が低くて自己満足しているだけの(大阪選出の某女性議員などの)議員がいかに多いことか。

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2019年3月12日、全国町村議会議長会が次のような報告書を公表したとのニュースがありました。

『議員報酬が下がるほど、選挙で立候補者が定数を超えなかったため投票せずに当選者が決まる無投票当選の発生率が上がると分析。報酬の低さは議員の成り手不足を増幅させると懸念を示し、報酬増も考慮すべきだと指摘。』

全国町村議会議長会にこの最終報告書を手渡したのは有識者委員会の江藤俊昭委員長。
江藤俊昭は、1956年東京都生まれの山梨学院大学大学院研究科長。マニフェスト大賞審査委員、議会サポーター・アドバイザー、地方自治研究機構評議員などを努める地方政治の専門家と評される人物ですが、現在の政治環境に対する分析は上記の報告書のように表面的でおざなり。議員となるモチベーションを報酬によって高めようとする発想は、売上向上を狙って高額な景品を用意する安易な商売と同じ。「金」で人を釣るこれほど安直でお気楽な解決策した見いだせない輩が「有識者」という衣で飾られている日本の現状は、実に嘆かわしいと老生ピエロは思うのです。

平成29年1月27日の行われた長崎県長与町議会で講師として招かれた江藤俊昭は、このようにも言っています。(長与町議会報告書より原文のママ引用)

『統一地方選挙では二割以上が無投票当選になってるわけです。このなり手不足、いろんな要素が考えられます。やはり活動量、これからどんどん活動して、時間がたくさん、潰れるとは言い方が悪いのかもしれませんけども、時間をいろんな形で使わなきゃいけない。そのときに見合ったある程度の報酬というのがないと、どうしても、なかなかそこへ入れない。立候補しようとしない、というふうなこともあるんじゃないか。だから持続的な民主主義を考えていく上で、私は報酬だけだとは思いません。やりがいもそうだと思いますけれども、報酬だけだとは思いませんけれども、そうした持続的に、そういう議員なるようなシステムを作るという意味でも、報酬の問題というのもですね、条件整備も含めてなんですが考えていかなきゃいけないかなというふうには思っています。』

日本の地方議員の報酬はそんなに低いのでしょうか、江藤さん?

米国の2018年度における地方議会議員の平均年収は24,083ドル。@¥115として、年収265万円。かたや日本はどうでしょう。東京都議の月額102万円というのは別格としても、「全国・全地域の議員報酬例規番付」というサイトで月額22万以下(米国平均の月額)の自治体は青森県中泊町で、報酬額順位は1224位。青森県中泊町の人口は平成30年度でちょうど1万人です。

パリ市の市会議員の報酬は月額4,807.62ユーロ(@¥125として約60万円)ですが、フランスの地方で人口10万の村の議員の報酬はわずかに月額228.09ユーロ(@¥125として約28,500円)。
青森県中泊町の人口の10倍あっても、その報酬は約1/8の低い報酬だからといってフランスの地方政治が不毛などというニュースは聞いたことはありません。

それでも日本の地方議員の報酬はそんなに低いのでしょうか、江藤さん?

政治家を目指そうとする成人が少ない理由は「お金」なんかじゃありませんヨ、江藤さん!
それとも、あなたは米国やフランスの例は世界的例外とでも言うのでしょうか・・・

政治家として住民に関わる動機を「報酬」を前提にして考えることが、世界の非常識なのではありませんか?

結局、江藤センセイの論法は民主主義というシステムの根幹をまったく理解していませんし、政治を賤しめるものでしかないとピエロは思います。


 1:山城屋和助事件
山縣有朋は足軽(武家社会では、武士のように袴や足袋を履けないという位で、武士に使えた雑役夫とも言える。)の身分であったが、内閣総理大臣を努めると共に、日本陸軍の基礎を築き「日本軍閥の祖」と呼ばれた。が、一方で権力や金銭、栄誉への執着ぶりは周囲では有名だった。
「山城屋和助事件」とは、山縣と同じ長州藩の奇兵隊に所属していた野村三千三(のむらみちぞう)が、奇兵隊出身の縁故を使って陸軍の公金を流用した事件。山縣の引き立てで兵部省の御用商人となった野村三千三は、軍需品の納入を一手に引き受け一気に豪商へとのし上がる。また、そのような関係から、山縣はその見返りとして、野村から多額の献金を受けていた。野村は当時兵部大輔(現在で言うなら防衛省トップ官僚)だった山縣と共謀して、陸軍の公金であった15万ドルを勝手に流用し、野村はその金を元手にして生糸相場に投資するも失敗。山縣はその補填のとして、盗人に追い銭で再度野村に公金を貸し付けたが、野村は失敗の穴埋めに努力するどころか、この公金を持ってフランスに渡りパリで豪遊。後に、山縣に公金の返済を迫られた野村は、一切の証拠書類を焼き捨てて、明治5(1872)年11月29日、陸軍省の一室で割腹自殺をして果てた。野村の自殺により、事件の真相は闇のまま。山縣は罪に問われることもなく、代わりに当時陸軍省会計監督長であった芸州藩出身の船越衛が、山城屋への公金貸付の責任を一身に受けて辞職した。山縣はこれにこりず、後に「三谷三九郎事件」と呼ばれるこれに似た汚職事件にも関わった。
三谷は十二代を数えた江戸の富豪で、代々両替商として金銀のみを取り扱う家柄で、野村三千三の口添えで大総督府の御用達となり、陸軍省にも出入りできた。が、油の相場に失敗し陸軍の金を流用するも、結局破産に追い込まれた。三谷に陸軍の金が流れたのは山縣という潤滑油があったからだ。三谷家に使用人ではあったが娘分の扱いであった「まさ」の証言では、三谷の破産の裏には、山縣をはじめ陸軍の士官が、砂糖にたかる蟻のようにむらがって食い荒らしたのだという。三谷が持っていた今戸寮は、陸軍省御用のために建てられた料亭のような大構えで、五十畳敷きの座敷には絨毯が敷きつめられてた。そこへ毎週土曜から日曜日にかけて山縣は子分を引き連れて泊りがけで豪遊して、呼ばれた芸妓衆はみな客の相手をさせられた。山縣はひいきの芸妓の一人から百五十円を無心されると「よしよし、三谷から借りよ」と鶴の一声で貸し下されたこともあったという。
こんな男が「日本軍閥の祖」である。山縣が創った「陸軍」の延長線上に東条英機が生まれ、昭和の悲劇につながったという説もある。

※ 投稿文中の敬称は略していることもございます。


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