博打を経済活動と呼ぶ低劣さ
IR法に反対している筆頭野党は日本共産党。その日本共産党議員の主張やその機関紙「赤旗」で展開されているIR法への反論の趣旨は以下の3点ですが、いつものように彼らの本心は選挙に勝つための主張であり、国民の生活を守るためとの姿勢は詭弁に近いものがあります。
① 現行法律で認められていない民間賭博を許すもの
② アメリカなどのカジノ資本の日本流入を開くもの
③ ギャンブル依存症の拡大
①については、基本となる刑法は民間にだけ賭博を許していないのではありません。賭博及び富くじに関する罪(刑法第185条~第187条)では、主体者に条件などはつけられていません。競艇、競馬、パチンコ、さらには宝くじなどは利権に染まったご都合主義の議員たちが作ったお手盛り法で特例とされているに過ぎません。賭博の危険性に言及しながらも、都合の良い部分だけを抜書きして持論を展開するのは日本共産党の得意技です。
参考までに賭博についての刑法を書いておきます。
刑法第185条
賭博をした者は、50万円以下の罰金又は科料に処する。ただし、一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまるときは、この限りでない。
第186条
1.常習として賭博をした者は、3年以下の懲役に処する。
2.賭博場を開張し、又は博徒を結合して利益を図った者は、3月以上5年以下の懲役に処する。
第187条
1.富くじを発売した者は、2年以下の懲役又は150万円以下の罰金に処する。
2.富くじ発売の取次ぎをした者は、1年以下の懲役又は100万円以下の罰金に処する。
3.前2項に規定するもののほか、富くじを授受した者は、20万円以下の罰金又は科料に処する。
②は、現行の日本共産党綱領の中でもアメリカ帝国主義について口を極めて批判していますから、カジノ産業へのアメリカ資本については猛反対なのは当然でしょう。しかし、現在の世界を見渡せばトランプのアメリカより習近平の中国のほうがより強行な帝国主義的なのは明らか。しかし、日本共産党はこのことには及び腰です。論理に一貫性がなく牽強付会の論旨も彼らの得意技です。
③は、日本共産党に限らずIR法に反対する人たちに共通する懸念です。(依存症については別枠で述べるようにします)
しかし、カジノに内包される根本的な問題点がイデオロギー好きの日本共産党には全く欠落しています。
1970年、ノーベル経済学賞を受賞したポール・A・サミュエルソンは、その書『経済学』(岩波書店)で次のように述べています。
「なぜ賭け行為はこのように好ましくないことと見なされるであろうか。その理由の一部、おそらくはいちばん重要な部分は、道徳とか倫理ないしは宗教の分野に属することからであると思われる。これらのことに関しては、経済学者は経済学者の資格で最終的な判断を下すことはできない。しかし、経済学の立場においても、賭け行為に対しては相当に有力な否定的論議がありうる。…
第一に、賭け行為は個人同士の間の貨幣のまたは財貨の無益な移転にすぎない場合がある。それは何の産出物を生まないのに、しかも時間と資源を吸い上げる。レクリエーション―そこでの主目的は結局のところ時間を「つぶす」ということになる―の限度をこえて行われる場合には、賭け行為は国民所得の削減を意味するだろう。…
第二の欠点は、それが所得の不平等と不安定性を助長する傾向を持つ点にある。それぞれが同一の金額をもって賭けを始める何人かの人たちも、帰るときには大きく差のある金額を懐にしているのが普通だ。賭けをする人の家族が当然予期しなければならぬのは、日によっては世界の頂点に立った状態であるかと思うと、そのうちにまた運勢が変わって――賭け行為について我々が確実に予言しうるのは、運勢が変わるということだけだ――今度は飢えに迫られるようになるかも知れぬ、という点である。」
控え目ではありますが、ここでサムエルソンが批判しているのは、農業などの経済活動は新たな生産物としての富を生み出したり、あるいは加工されたりしてその生産物に付加価値が加えられて消費者に販売されるまでの生産的経済活動と「賭け行為」は異なっているということです。
たとえ原価が安くても、美味しさとか、美しさとか、使いやすさなどの価値が付加されて利用者に値段相応の使用利益が与えられて、作りても買い手も満足するのが経済活動と言えるもの。丹精込めて作った青森のリンゴは多少高くても美味しいし、寒い海へ早朝から出港して漁師が釣り上げる新鮮な寒ブリも美味しい。
しかし、そのような価値が賭博に加えられることはありません。
金を得たいという欲望を合法的に最も簡単な手段で満たそうと試みるのが、ギャンブルをする人の本音でしょうが、その試みが成就されることの確率は期待するほどに高くないことは、博打を経験したことのあり人なら誰もが知っている事実です。まさにサムエルソンが述べた「賭けをする人の家族が当然予期しなければならぬのは、日によっては世界の頂点に立った状態であるかと思うと、今度は飢えに迫られるようになるかも知れぬ」という両極端の結果がつねに併存し、しかも期待はずれに終わることの大半なのがギャンブルなのです。逆ならば、日本中にこれほどの多くのパチンコ店は存在していません。
『経済学』の「賭け行為」についての註釈には次のようにあります。
「職業的に経営される賭け行為では、実際にはお客が差し引き損をするようになっている… それは『親』の方に勝ち目があるように仕掛けてあるからで、『正直な』親でも長期的には勝つようになっている。」
これがギャンブルの基本であり、安倍首相たちが推進するカジノもその例外ではありません。手塩にかけた野菜を安く売ってくれる『正直な』お百姓さんは日本全国に数多いますが、『正直な』親などギャンブル界には絶対にいません。お客が必ず損するようなシステムで成り立つカジノ経済に日本の将来を託したのがIR法であり、与野党をまたいだ200名を超える国会議員がそれに賛成したのです。いうなれば、この200名は我々の前で厚顔無恥にも『正直な親』を演じているだけなのです。
さらに、『親』に公的意味合いが濃くなるほどに『親』は正直さからますます離れていきます。
日本の民営ギャンブルでの還元率(勝った場合に戻ってくる割合)は、競艇74.8%、競輪74.8%、オートレース74.8%、競馬74.1%ですが、公営といってもいいサッカーくじ(toto)は49.6%、宝くじにいたっては45.7%にすぎません。パチンコの平均還元率が85%程度ですから、いかに公営ギャンブルでの『親』があくどいかが分かります。
サムエルソンは、「客のお金の収奪を大前提にする賭博に公正な経済活動はない」と断言しています。
もっとも、今のグローバルな経済活動はどこもかしこもリクス分担もない極めて投機的なものとなっていますから、株相場や保険などの金融投機に関わる人達の経済活動はギャンブル投機であり、新たな富を生み出さない非生産的活動であると言えましょう。このことを英国の経済学者スーザン・ストレンジは「カジノ資本主義」と名付けて批判しました。言い得て妙です。
IR施設を「複合観光施設」などといって国民の目を誑かすような言葉を並べても、IR施設は国民のお金をギャンブルに注ぎ込ませる箱であり、「観光施設」ではなく「賭博場」なのです。
IR推進派がきまって引用するシンガポールのIR施設「マリーナベイ・サンズ」のカジノへの入り口は中国語で「賭場」と書かれています。賭場でなされる経済は、不運な敗者の財布に頼っている「財貨の無益な移転にすぎない」見せかけの経済活動に過ぎないのです。