黒い共産主義

8 レーニンが敷いた独裁体制

今日この時代において、社会主義体制の意義が地に落ちていることは正常な人権バランスをもっている人にとっては共通した理解でしょう。ロシアや中国の我田引水、厚顔無恥、牽強付会の態度を連日のように目の当たりにしては、彼らの体制に芥子粒ほどの存在意義の無いことは共産主義者以外の誰もが既知の事実として捉えています。

それでも、かつて社会主義は、制度としての所有権や資源の配分という見方から資本主義に並ぶ体制とされ、第二次世界大戦後の東欧では下記のように、ソ連主導による社会主義化への劇的な変動が席捲しました。

ドイツ民主共和国(DDR 東ドイツ):1949年10月、社会主義統一党委員長・ピークを大統領にして成立
ポーランド:1945年5月、ポーランド統一労働者党(42年に共産党から名称変更)によるあらたな国家が成立
ハンガリー:1944年末、ハンガリーに侵攻したソ連軍がドイツ軍を排除し社会民主党・民族農民党・共産党から成る臨時政府が成立
ルーマニア:1945年に左派政権が成立、翌年の総選挙で共産党を中心とした統一ブロックにによる統治が始まる
ブルガリア:1945年、総選挙において労働者党が88%の得票で圧勝。翌年王政は廃止され、ブルガリア人民共和国が成立しソ連の衛星国家の一つとなる
チェコスロヴァキア:1948年に共産党のクーデター(二月事件)が成功して共産党政権が成立
ユーゴスラヴィア:1946年、スターリン憲法を範とした憲法を制定して、ユーゴスラヴィア連邦人民共和国が発足
アルバニア:1946年、パルチザン闘争の指導者ホジャが主導権を握りアルバニア人民共和国を樹立。スターリン体制に追随する姿勢を続けた

しかし、1988年、旧ソ連のゴルバチョフ政権が新思考外交に転換し、東ヨーロッパ社会主義圏の諸国では社会主義体制から市場経済の導入、複数政党制による議会制度の導入などの民主化を実現させた東欧革命が一挙に進みました。資本主義に並ぶ体制と目された共産主義はついに資本主義と同じ舞台に立つことさえできずに、出番を待ち望んだ舞台の袖から出ることはありませんでした。

信奉者にとっては絶対的真理であり、誤謬がないとする点では社会主義イデオロギーはある種の宗教性を内包しているものです。資本主義社会の中でも対立する思想は常に存在しますが、激しい論争はあっても相手の命を奪うような行為は一切ありません。しかし、レーニンやスターリン、毛沢東らは敵対するグループを激しい言葉だけでなく、暗殺や処刑といった方法までも使って抹殺してきました。レーニンにその例をみてみます。

社会主義イデオロギーを信奉する者が政権を取ると、その体制は空想的理念から一足飛びに現実的理念へ変換されてゆきます。

ロシア10月革命前夜に書かれたレーニンの「国家と革命」(脚注 1 )には、共産主義社会の風景が次のように牧歌的に書かれています。

「気の向くままに今日はこれをし、明日はあれをし、朝には狩りをして、午後には魚を獲り、夕には家畜を飼い、食後には批判をすることができるようになり、しかも猟師や漁夫や牧人または批評家になることはない。」

マルクスの「共産主義の高度な段階においては、個人が分業に奴隷的に従属することはなくなり、それとともに精神労働と肉体労働の対立がなくなる」(「ゴータ綱領批判」)との予言に沿ってのレーニンの社会主義国家像は、極めて単純なものでした。しかも、彼が手にした国家は第一次世界大戦という歴史的な混乱があったればこそのものでした。

ボルシェビキたちは革命(とは名ばかりの暴力的な権力奪取)に成功すると、その直後から内戦期に突入。現実の経済体制と国家の構造はレーニンが構想していたものと大きく違ったものになっていきました。貴族や資本家、地主の企業や資産が没収され、国有化されて空想家たちが描いたように国有化は確かに実施されました。しかし、生まれたばかりの革命権力を守るためには戦時共産主義体制の下で「反革命派」と名指しされた反対勢力に対する「赤色テロル」といわれる血生臭い武力弾圧が各地で展開されてゆきます。レーニンの空想が現実となったロシアは、自著の「国家と革命」で予想された国家は「死滅する」どころかますます強化され、かつてないほど強大なものになっていったのです。

レーニン思想の要点
マルクス、エンゲルスのユートピア的共産主義思想を引き継いで、現実に社会主義国家を成立させたレーニン思想の要点は、次のようなものです。
1)「革命は暴力革命でなければならない」
マルクスの「共産党宣言」の最後の章には、『共産主義者は、これまでのいっさいの社会秩序を暴力的にくつがえしてのみ、自分たちの目的が達成されることを、公然と宣言する』とあります。自らを「マルクス主義者」と呼んだレーニンの著書「国家と革命」にも、『プロレタリア国家のブルジョア国家との交替は、暴力革命なしにはありえない』の言葉がみえます。共産主義者にとって、彼らが用いる暴力は他のどのような暴力とも異なり、社会を理想に近づけるために用いられる特別な価値を持たされています。共産主義社会を実現するための手段として暴力は、欠かすことのできないものとなります。

2)「プロレタリア独裁」
ほんとうの民主主義を確立するには、プロレタリアによる独裁政治が必要であるとしています。一部のブルジョアジーに富が独占された資本主義による民主主義はニセモノである ⇒ プロレタリア独裁による社会主義の建設が不可欠である ⇒ そして真の民主主義(=共産主義)が確立される、という具合に、真の民主主義を達成するためには、共産党独裁政治が必要不可欠であるとしています。「国家と革命」には次のように書かれています。「プロレタリアートの独裁は法律によって制限されず、暴力に立脚する」「共産主義社会ではじめて…ほんとうの民主主義が可能」。

3)「民主主義的中央集権制」
この長たらしい言葉は、「民主主義」と「中央集権」という互いに相いれない水と油の要素を「民主主義のような中央集権制」として組立てた共産党に独特の組織の原則をいいます。
「中央集権」の部分を考えますと、個人は組織に、下級組織は上級組織に、地方は中央にというふうに、常に上級組織が下を管理します。また、下級組織はどのようなことがあっても上級組織の決定に反対することは許されません。

また、「民主主義」の部分は、各組織の指導部は選挙によって選出されること、また会議では多数決制がとられること、上級機関の決定がない問題については自由な討論が可能なこと、です。 しかしこの民主主義には、大きな落とし穴があります。共産党の組織においては、いかなる分派も造ることは許されていません。党中央と違った意見は個人には許されていても、その意見をもって反対グループを結成すると即座に規律違反で処罰されてしまうのです。個人が意見を述べても、幹部がそれを取り入れなければ二度とその意見を申し立てることはできません。

民主主義の大前提は、個人の思想や行動が尊重されることですから、共産党の民主主義とはあくまで「疑似民主主義」であって、「民主主義」ではないのです。そしてこのシステムでは、党中央の権力さえ手に入れれば全党を支配できますから、民主主義とは名ばかりの「独裁政治」が容易に可能となります。レーニンと共にロシア革命を戦い、後に同志レーニンによって追放されたトロッキーはこの「民主主義的中央集権制」の将来を心配して、こう述べました。「もし現在の道を進めば…中央委員会は独裁者に代行されるだろう。プロレタリア独裁は、プロレタリアートに対する独裁にいたるだろう」。

ソ連に限らず世界中の共産党は、このトロッキーの予言通りの道を歩んでいることを21世紀の私たちは現実に目にしています(脚注 2 )。


 1:「国家と革命」
1917年の書かれた。主な内容は、国家とは階級対立とともに発生した支配階級の被支配階級抑圧のための機関にほかならないこと、社会主義の実現のためにはブルジョア階級の国家を暴力的に粉砕し、プロレタリアートの階級的独裁を樹立しなければならないこと、社会主義の国家形態はコミューン型国家であり、そのもとで民主主義はいっそう発展し、官僚制も克服され民族的対立もなくなること、共産主義への移行とともに国家はひとりでに死滅するであろうこと、などが主張されている。

 2:独裁的な体制
ソビエト社会主義共和国連邦は1991年に崩壊し、現在はロシア連邦という国名です。一時期、配下のメドベージェフに席を譲ったものの2000年から実質上の元首としてロシアに君臨するプーチンは、民主的な選挙によって選出されたことになっていますが、その実態は我々自由圏に生きるものからするとトロッキーの言う「独裁者」そのものです。その実像をかいつまんで記しておきます。

現ロシア連邦の第4代大統領・ウラジーミル・ウラジーミロヴィチ・プーチンは1952年10月7日、スターリン晩年時代のレニングラードに生まれた。
祖父は、レーニンとスターリンの別荘料理人。父は、大戦中は内務人民委員部隊所属、戦後は鉄道車両工場の工員。1975年、大学卒業と同時にKGB(1954年からソビエト連邦の崩壊[1991年12月]まで存在したソビエト社会主義共和国連邦の情報機関・秘密警察。おもな仕事は、ソ連国家体制の擁護、とくに、反体制派の抑圧、国境警備、対外情(諜)報活動など)に採用される。
1990年にKGBを退職し、かつての恩師が市長をしていたレニングラードで議長顧問に就任。1996年8月、大統領府総務部次長に就き、1998年7月にはKGBの継承機関FSB(連邦保安庁)長官に就任。1999年8月にはFSB長官を兼ねながらロシア連邦政府議長(首相)に任命される。同年の大晦日、エリツィン大統領の突然の辞任を受け憲法上の規定により大統領代行となる。2000年3月26日に実施された大統領選挙において、一回目の投票で52.2%を獲得し大統領に当選。二位は共産党のジュガーノフ候補で得票率はプーチンの半分の29.44%だった。

プーチン

プーチン政権下での議会をめぐる最大の問題点は、2001年7月と2005年5月に成立した「政党法(政党に関する連邦法)」である。
2001年の政党法では、政党として登録できる条件が次のように厳しく限定される。
1. 89(現在は85)の連邦構成主体(地域と民族という2つの概念からなる地域区分)の全ての地域に党員50名以上の支部を持つこと
2. 半分以上の支部において党員数が100名以上であること
3. 全地域の合計党員数が10.000名以上であること
4. このような政党のみが候補者を単独で擁立できること

この新法によって、約130の小さな政党や地方政党は法的基盤が失われ、また新たな政党を立ち上げることも不可能となった。その反面で、上記の要件を満たした政党には国からの助成金が与えられ、政権与党や共産党などの既存大政党にとってはこれまで以上に有利な選挙戦が行えることとなり、ロシア政界は、左派、中道、改革派の3陣営に再編成された。2001年12月には、プーチンの第一回大統領選挙下では激しく対立した「統一」と「祖国」の二党がプーチン支持を掲げて合併して「統一ロシア」という一大政党が生まれた。このように2001年の政党法では、政権によって政党と下院に対する監視(統制)が格段に厳しくなり、選挙管理委員会や会計検査院が党員の登録状況、財政状態、内部事情を細かに把握できるようになり、政党管理の強化に法的根拠を与えることとなった。

2005年、プーチンはこの年の9月に起こったベスラン事件(脚注 3 )を口実にして、下院議員選挙制度の改革を行う。
1. それまで、下院定数450の議席は小選挙区と比例区に二分されていたが、この改正下院選挙法では比例代表制に一本化された
2. 複数の団体が連合して候補を立てることは禁止され、候補を擁立できるのは政党のみとされた
3. 政党の候補者は各地域の有権者数に応じて作られた地方グループの中からのみ可能で、しかもその地方グループの総数が全ての連邦構成主体で100以上なければならないと限定された
4. 中央選管への選挙人名簿の登録に際しては20万人以上の署名が要求され、しかも多額の供託金も強要されるようになった
5. 政党の登録も2001年の政党法では全地域の合計党員数が10.000名以上であったが、新法では50.000名以上に大きく引き上げられ、下院選挙に参加できる政党の数はこれまで以上に制限されるようになった

このように、2005年の法改正により、地方選出の下院議員と地方指導者のパイプは寸断され、権力の一点集中化がより推進されて、政権与党にますます有利な政治環境が用意された。

プーチンの強権ぶりはこの二つの法改正だけではない。彼の専横振りの主だった改正事項を挙げておく。
1. エリツィン時代、下院で常に優位を占めた共産党に対抗する形で認めた地方自治権は中央を脅かすとして、プーチンは連邦法に違反した地方自治体の首長を罷免できる権限をもった
2. 税の徴収権を地方レベルから連邦レベルに移行した
3. 連邦を7つの管区(10前後の共和国や州から構成))に分割し、各管区に大統領の全権代表を置くようした。その職務は、国家権力機関による政策遂行の監視、政治および社会、経済の醸成報告、そして治安行為。つまり、大統領の犬として忠勤に励むこと
4. 地方自治体の首長の直接選挙を廃止。首長は大統領の指名を受けた者が、地方議会が承認して選出されるようになる。事実上の大統領任命制
5. 首長の人選について地方議会が大統領の選択を三度拒否すると、大統領は議会の解散を命ずることができる
6. 「情報安全保障ドクトリン」を発表し、メディアは国家の社会資本であり、政権のために協力すべきであるとして政権に批判的メディアを抑制

さらに、憶測を交えて加えるならプーチンの「オリガルヒ」操作が挙げられる。
オリガルヒとは、ペレストロイカ移行期に行われた公営企業の民営化プロセスの混乱において、国有財産の収奪を行った新興財団のことである。その多くは地方、連邦の両域における政治家や官僚と癒着した中で莫大な富を獲得し勢力を拡大した者たちである。国家の弱体化を招いた張本人として槍玉に挙げられ、プーチンも大物を横領罪で逮捕するなど牽制球を投げたが、その裏で彼らの金を元手に与党側新党を設立した。また、プーチンの有力後継者のひとりであるメドベージェフが、ロシア最大のガス生産供給会社・ガスプロムの指導的地位にあるように、プーチン政権の要人にはオリガルヒの重要なポストに就いているものが少なくない。プーチンの下では、プーチンに擦り寄るオリガルヒとは互いの利益を通じての相互補完関係にあると言える。

二回目の大統領としての任期は2024年5月まで。従来の憲法では、大統領は連続二期までとなっていたが、メドベージェフを間に挟んだ今は4期目。さらに憲法は変えられて、大統領の任期については「これまでの任期を除き、生涯二期とする」としたので、プーチンの大統領職はまだまだ継続しそうである。

 3:ベスラン学校占拠事件
2004年9月1日から9月3日にかけてロシアの北オセチア共和国ベスラン市のベスラン第一中等学校で、チェチェン共和国独立派を中心とする多国籍の武装集団(約30名)によって起こされた占拠事件。7歳から18歳の少年少女とその保護者ら1181人が人質となる。3日間の膠着状態を経て9月3日に特殊部隊の強硬突破で建物を制圧し事件は終了したが、386人以上が死亡(うち186人が子供)、負傷者700人以上という大惨事となった。首謀者はチェチェン人のシャミル・バサエフ(独立派強硬派グループ「コーカサス戦線」の指導者)。
コーカサスはロシアの南端にあり黒海とカスピ海にはさまれた地域。1991年のソ連解体は、形式上連邦からの分離独立権を認めたソ連憲法に基づき南コーカサスの3共和国(アルメニア、ジョージア、アゼルバイジャン)に独立を果たさせたが、北コーカサスの諸民族自治共和国はロシア連邦からの分離権を憲法によっても認められず、独立運動をロシア当局に押さえ込まれた。中でもチェチェン共和国は1991年に就任したジョハル・ドゥダエフ大統領のもとでソ連およびロシア連邦からの分離独立を宣言し、強硬姿勢を貫いたため、1994年よりロシア連邦軍の攻撃を受け、第一次チェチェン紛争が勃発した。以来、チェチェンを中心に戦乱、テロが続発し、北コーカサスはロシアの中でも特に不安定な地域になっている。一方、独立を果たした南コーカサス3国も、アゼルバイジャンとアルメニアのナゴルノ・カラバフ戦争などを原因として民主化の阻害と経済発展の停滞が著しく、問題が山積している。(wikipedia)

※ 投稿文中の敬称は略していることもございます。


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