10 アレクサンドル2世による「大改革」
農奴制廃止は「私が息子に残す最も必要な行為」だと述べたニコライ1世の言葉は、子のアレクサンドル2世にどのように響いていたのでしょうか。
アレクサンドル2世が行った改革は近代ロシア史において画期的な「大改革」であったことは歴史家に共通する意見ですが、農奴解放令によって「大改革」が始まったわけではありません。クリミア戦争敗北(1856年)と皇帝の交代(1855年)はほぼ同時で、アレクサンドル2世は敗戦によって明かされた弱体化した国家の姿に即位直後に直面します。そして、政府が抱える第一の課題は国家財政の赤字解消をどうするかということを理解しました。
1852年から57年の間(クリミア戦争は1853〜56年)に膨れ上がった財政赤字は、国家予算の3.5倍にもなっていましたが、これを増税によってまかなうことは不可能でした。なぜなら、税収の主なものは人頭税、国有地農民の貢租、工業税、関税、酒税、印紙税などで、社会構造の抜本的変化がない限り税収増は望めないものでした。また、税の滞納は歳入の60%を超える額にもなっていましたから、税収に財政の改善を期待することはできませんでした。
社会構造を変化させる方法の選択肢のひとつとして農奴解放が考えられましたが、それは一方で体制を支えている貴族の特権剥奪を意味しましたし、他方で解放された農民の政府への反動の恐れも想定され、敗戦で国家が弱体化している際にただちに選べるものではありませんでした。ですから、農奴解放令はアレクサンドル2世が直面した課題の軍改革と財政赤字を解決する過程での社会構造の改革の一つであったと捉えるのが妥当のようです。
つまり、財政立て直しを解決するには社会構造および産業構造変化が必要であると考えられ、その具体的方法として鉄道等の建設と農奴解放が挙げられたのです。鉄道等のインフラ対策は外資の誘致や輸送の容易化で民を豊かにするというメリットがあり、農奴解放は財政的プラスとはならないものの、人道的立場に加えて、解放による農民の人間的成長がロシアの産業や政治の発展につながるという高邁な考えがありました。また、鉄道建設などによって農民に労働の機会を与えることで政府の負担を軽減しようとする思惑もありました。
そして、農奴解放令は1861年3月3日に発布されました。(ちなみに、米国リンカーンによる「奴隷解放宣言」は1862年9月22日です)
農奴解放令の内容
農奴の息子ロパーヒンが桜の園を買い取るというストーリの『桜の園』は、チェーホフ最晩年の戯曲です。チェーホフの祖父もかつては農奴で、3500ルーブルで自由の身分を買い取ったといわれます。「私たち農奴出身の作家は自らの青春を犠牲にして、貴族が生まれながらにして持っているものを手に入れます。自分の血管から農奴の血を一滴、一滴絞り出して、ある朝やっと自分がまともな人間になったと気づくのです」とチェーホフが語っているように、農奴であることはおよそ人間としての生活権を剥奪されたものでした。何等の保護も受けられないことから「物言う家畜」とまでいわれた当時のロシアにおける農民ほど、苦悩、圧迫と侮蔑を経験した国は世界のどこにもなかったでしょう。
繰り返しますが、農奴解放とは孤立・独立した政策ではありません。農奴解放は必然的にそして連鎖的に他の諸改革を誘引します。たとえば、解放以前は領主が担っていた農奴への行政、警察、裁判などはどうするのか、領主に従属する農奴をどのように独立した個人にしてゆくのか。農奴解放を契機に、司法改革、軍制改革(国民皆兵制の導入)、市制改革などの諸改革がおこなれてゆきました。その中で、農奴は、個人としては自由になったのです。しかし、それは極めて片手落ちのものでした。
「経済的自立」のために、農奴には国から土地(平均一人当たり約3.5ヘクタール)が与えられました。が、農奴に与えられる土地は、国が地主から買い上げたもの。(脚注 1 )耕す土地を求める農奴はその土地を国から買い取らなければなりません。ほとんどの農奴にとって一括購入する資力などありませんから、購入するには分割払いで買うしかありません。支払い金額は、地主貴族にとって有利なように、地代の16.67倍にも上る額で、49年間にわたって分割払いし続けなければならない決まりでした。おまけに、地主は領地内の肥沃な部分は自分に残し、農奴には沼地や不毛なやせた土地を分与していました。農奴は法的に自由になり、動産および不動産を所有する権利を有することが解放令に謳われていましたが、その改革は地主本位の不徹底なものでしかなく、土地を手にできる農民は少なくてなおかつ借金にまみれた状態に陥ってしまいます。こうして、多くの農民が離村し都市の賃金労働者となってゆき、アレクサンドル2世の農奴解放令は社会的矛盾をいたずらに増幅させてしまいました。
農奴解放令の内容が明らかになるにつれ、各地で農民騒乱が起こります。その頂点が1861年4月の「ベズドナの反乱」でした。モスクワから東へ600kmほどのところにあるカザン県のベズドナ村を中心に起きた農民蜂起を指揮したのは、読み書きのできた農民アントン・ペトロフで、この地域の130の村から約5000人の農民が騒乱に加わりました。しかし、皇帝軍によって57人(91人という資料もある)の農民が殺され、アントン・ペトロフも死刑を宣告されて蜂起は終結します。こうした状況下で、市民による農奴の解放運動も起こります。そうした社会運動は専制と農奴制を批判して「ナロードニキ(人民主義者)」と呼ばれました。彼らは、人民とくに農民の利害を代弁しながら民衆を啓蒙して革命を惹起させ、ロシアの資本主義を経ずしてミール(農村共同体)を基盤とする農民社会主義の実現を目指そうとしました。その代表的なものが政治結社「土地と自由」で、プレハーノフらによって指導されていました。
しかし、彼らの熱心な説得にも関わらず、保守的な農民を動かすことが出来ませんでした。その大きな原因の一つに農民の高い文盲率があります。1920年のロシア国勢調査によれば、全人口の実に68.1が文盲でした。当時の農奴の人口比率は67.5%ですから、「ベズドナの反乱」を指揮したアントン・ペトロフのような例は例外中の例外で、ほぼすべての農奴は文字が読めませんでした。そんな彼らにとってナロードニキが使う言葉の意味さえ理解できずさらには農民には皇帝崇拝が根強く残っていて、逆にナロードニキを警察に突き出す例もありました。
懸命な努力が報われないことを知ったナロードニキたちは次第に絶望してゆき、運動そのものを否定するグループの一部は直接行動による手段を主張しテロリズムに走ったり、革命に絶望して社会正義を否定するニヒリズムに陥っていったりしてゆきます。そして政治結社「土地と自由」は、テロリズムを肯定する「人民の意志」派と、あくまで農村共同体を基盤とした運動を続けようとする「土地総割替」派に分裂してゆきます。
人民の意志
この「人民の意志」が、本項第7回で書いたレーニンの兄アレクサンドルが参加したテロ・グループです。先鋭化したナロードニキの運動に対し、皇帝アレクサンドル2世は烈しい弾圧を加えてゆき、その反動で「人民の意志」の標的は必然的に皇帝に向かいます。標的を目視した上で決着をつけるテロリストの行為は、ロシアにおいての左翼による政治的暗殺が有効だったばかりでなく、正当であり、革命運動の質的飛躍を一挙に成し遂げる事業となってゆきました。
アレクサンドル2世の生命が狙われた「人民の意志」による事件は、以下のようなものです。
1879年4月2日 暗殺未遂
1879年11月 列車転覆失敗
1879年11月19日 列車転覆失敗
1880年2月5日 冬宮に侵入し露帝一族の食堂爆破。暗殺未遂
1880年8月18日 ペテルスブルグにある橋に爆弾を仕掛ける。失敗
そして、1881年3月1日(ロシア暦13日)、ロマノフ家の馬場があったミハイロフスキーから冬宮殿へ戻る途上のアレクサンドル2世が標的とされました。午後2時15分、皇帝が乗った馬車がエカテリーナ運河添いの道に近づいたとき、「人民の意志」党員リサコフが投げた爆弾は装甲処理された馬車の下で爆発。騎兵が致命傷を受けるも皇帝は無傷。これを見た、同党員フリニェヴィエツキは二発目の爆弾を馬車を下りた皇帝目がけて投げ、皇帝に重傷を負わせることに成功します。皇帝は急いで冬宮殿の執務室へ運ばれました。20年前に農奴解放令にサインしたのと同じ場所のその部屋で、アレクサンドル2世は午後3時30分に亡くなります。時に、62歳でした。
フリニェヴィエツキは自分が投げた爆弾の犠牲となりますが、一発目を投げたリサコフは無傷ですぐさま現場の衛兵に取り押さえられました。しかし、自身が生き延びるために捜査に協力したため、テロ一味は2日後に警察によって一網打尽となりました。姑息な方法を使ったリサコフでしたが、結局は仲間の5名とともに絞首刑にかけられました。
「人民の意志」の革命理論は、経済革命に政治革命を優先させてしかも政治的テロ=暗殺をその最も有力な手段としていました。「人民の意志」党第4号機関紙には次ような下りがあります。
「テロの事実は、現在の政治的諸条件の結果不可避であって、識者を鼓舞し、人民的意識を明らかにすることを助ける。叛乱の時期に組織的に行われるテロの事実は叛乱の成功を最高度に助ける」
「人民の意志」党がこの名称“人民の意志”をもって自分たちの党名にしたのは、彼らが人民の意志を体現していると任じていたからではなく、人民の意志が実現されるような条件を創出することが自分たちの使命、任務であると考えていました。そして、「人民の意志」党のこのような人民観は、そのままナロードニキの伝統でもありました。
「人民の意志」党は主導者たちが処刑されたことで、機能不全に陥り急激に下火になってしまいます。しかし、ナロードニキの運動は後の幾多の社会運動に多大な影響を及ぼし、1905年と1917年のロシア革命の導火線になったとも評されています。
1:地主貴族の土地
当時のロシア帝国の年間予算は3億1100万ルーブル。農奴解放令として、国が地主に対して彼らが農奴に分与した土地の代価は、9億200万ルーブルで相場の数倍にもなったと言われています。が実際に支払われたのは60%程度で、残りの3億1600万ルーブルは地主貴族の借入金処理のため保留にされました。