黒い共産主義

11「血の日曜日」に歓喜したレーニン

世界で最初の社会主義革命がなぜロシアで成功したのか、という素朴な疑問に簡潔かつ明瞭に答えることはとても難しいと、ピエロは思います。
ロシア革命に関する本を何冊か参照しましたが、ある研究者は「ロシアの種々のグループに蔓延していた不満」がトリガーになったと書き、またある著者は「ロシアの社会的、経済的な後進性」であると綴っています。しかし、それらのいずれも得心のゆく説明ではありませんでした(きっとピエロの読解力が低いのでしょう)。
ですからピエロは、最も客観的にそして確実に検証できるロシア王朝の歴史をおさらいすることで、ロシア革命に辿りつこうと試みています。

さて、そのロシア王朝の終焉です。

第9回『ロシア革命の背景だった「農奴」』でみたように、クリミア戦争の敗北によりニコライ一世のロシアは半ば破産状態となりました。そして、1840年代からロシアの進むべき道について危惧していたエリート層は、自国の後進性を再確認して、軍事力は言うに及ばず社会構造そのものの改革の必要性を強く主張するようになりました。ニコライ一世を継いだ皇帝アレクサンドル二世の時代となると、彼のイニシアティブのもとで「大改革」がはじめられ、改革派官僚が用意した改革案を実行することでロシア帝国はニコライ一世時代のくびきから逃れ、不十分ではありましたが資本主義に適合できるような政治、経済、社会構造が作られてゆきます。結果は芳しくはありませんでしたが、クリミア戦争の敗北によって不本意ながらも誘引されたアレクサンドル二世の「大改革」は、専制の拠り所であった身分制を市民社会の枠組みに換えるきっかけを作ったことは事実でしょう。

このアレクサンドル2世の後を継いだのは、アレクサンドル3世(在位1881~94年)でした。アレクサンドル3世の母でありアレクサンドル2世の皇后だったマリア・アレクサンドロヴナは不義の子で、父親のアレクサンドル2世も自分の愛妾をマリアの女官に任命したりと、アレクサンドル3世はスキャンダルの多い家庭に生まれ育ちました。そうしたこともあり、アレクサンドル3世の治世は父が行った改革を否定することが前提にあり、父への反動として祖父ニコライ1世のような専制政治こそが安定した帝国を築く手段だと信じていたところがあります。祖父ニコライ1世のロシアは、軍隊的秩序が社会のあらゆる分野に浸透し、官房に設置された「第3課(政治警察)」はあらゆる反体制組織を弾圧し、あのプーシキンも監視体制化に置かれていました。国外においては「ヨーロッパの憲兵」として自由主義を抑圧し、ウィーン体制下では紛れもない超軍事大国でした。

アレクサンドル3世は即位すると同時に「臨時措置令」を公布。ヨーロッパ文化に影響された思想、自由主義的改革に距離を置き、それら傾倒する人物の投獄、追放、出版の検閲を容易に出来るようにしました。人民の教育にも関心が低く、彼の政治によってロシアの文盲率は80%になったという説もあります。そして、ロシアが西欧の自由主義のために東欧で失った覇権を回復する唯一の方法は「ロシア化」であると確信し、ロシアを救うのは議会政治や西欧の自由主義ではなく、愛国者が誇りとするロシア固有の3つの理念-スラブ民族主義、東方正教会の信仰、専制政治—であると考えました。単一の民族、言語、宗教、統治形態から成る国家が彼の理想であり、その実現に向けてドイツ、ポーランド、また他の非ロシア系国民に対し、ロシア語、ロシア式教育、東方正教会への改宗などを進めました(プーチンの覇権主義にとても似ています)。

このアレクサンドル3世の後を受けたのが、ニコライ2世。ロマノフ朝最後の皇帝です。

ニコライ2世の時代は、国内的にはツァーリズム(脚注 1 )の強化がなされ、外交的には東アジアへの侵出というロシアの帝国主義政策がなされました。蔵相ウィッテ(脚注 2 )が中核となって政策が進められ、1895年の三国干渉、1896年の東清鉄道敷設権の獲得を進めました。

Witte

また1898年の列強による中国分割に加わり、旅順・大連の租借・南満支線の敷設などを行います。ヨーロッパにおいてはドイツ・オーストリアと対抗するため、露仏同盟を強化して、シベリア開発がフランス資本の援助によって進められました。1900年、清で義和団が反乱を起こすと他の列強とともに出兵、1900年8月14日に北京が奪回され反乱は鎮圧(北清事変)され、翌年、講和が成立し北京議定書が締結されたものの、ロシアは鉄道保護の口実で満州から撤兵せず、イギリス・日本との対立が先鋭になり、特に朝鮮ではロシアの影響力が強まり、日本に大きな脅威を与えました。そして1904年2月、ついに日露戦争に踏み切りましたが、陸海ともに実質的なそして屈辱的な敗北を喫し、国内においては戦争を継続する帝政への不満が市民の間に高まり、1905年1月9日「血の日曜日」事件が勃発します。

「血の日曜日」に歓喜したレーニン

「血の日曜日」事件が勃発したとき、レーニンはジュネーブにいました。事件報道を聴いたレーニンはすぐさまロシア社会民主労働党が発刊する「フペリョード 第4号(1905年1月31日付)」に二本の論文を発表します。そのうちの一本である『ロシアにおける革命の始まり』で、レーニンはこのように宣言します。
『さわめて偉大な歴史的事件がロシアにおこっている。プロレタリアートはツアーリズムに反対してたちあがった。プロレタリアートは政府によって蜂起に駆りたてられたのだ。政府が、事態を軍事力の使用にまでもっていこうと思って、わざと比較的妨害を加えずにストライキ運動が発展するままにまかせ、また広範なデモンストレーションが始まるままにまかせたということには、いまではほとんど疑う余地がない。そして、政府は事実そこまで事をもっていったのだ! 何千もの死者と負傷者、これがペテルブルグにおける1月9日の血の日曜日の総決算である。・・・・・・
革命的プロレタリアート万歳! と、われわれは言おう。ゼネラル・ストライキは、労働者階級および都市貧民のますます広範な大衆を立ちあがらせ、動員している。人民の武装は、革命的時機の当面の任務の一つとなっている。武装した人民だけが、人民の自由の真の支柱となることができる。そして、プロレタリアートが武装に成功することがはやければはやいほど、彼らが革命的ストライキ参加者というその軍事的地位を長くもちこたえればもちこたえるほど、それだけはやく軍隊は動揺するであろうし、それだけ多く兵士のあいだに、自分がなにをしているかをついに理解して、人々ともに反対し、暴君に反対し、武器を持たない労働者やその妻子の殺害者に反対して、人民のがわに立つ人々が出てくるであろう。ペテルブルグそれ自体における現在の蜂起がどういう結果に終ろうとも、いずれにせよそれは、きっと、かならず、さらにいっそう広範な、いっそう意識的な、いっそうよく準備された蜂起への、第一段階となるであろう。・・・・・・
労働者および一般にすべての市民の即時武装、政府官庁と諸機関とを破砕するための革命勢力の準備と組織ーこれこそが、そのうえに立ってありとあらゆる革命家が共同の打撃を加えるために結集することができ、また結集しなければならない、実践的な土台である。』

「血の日曜日」事件が起きるまでは、レーニンを含むロシアのマルクス主義者たちは、ロシアにおけるマルクス主義の父と言われるプレハーノフの「非連続的二段階革命論」に依拠していました。これは、資本主義の発達がまだ低い段階にあるロシアにおいては、当面する革命は、ツァーリズムを打倒し、ブルジョアジーに政権を委ねるブルジョア革命が先ずあり、そして、ブルジョア支配下での資本主義の比較的長期にわたる発展と、プロレタリアートの階級的成長を経たのちにはじめて社会主義革命が展望できる、としていたのです。プレハーノブは、「産業の発展のより高い国は、その発展のより低い国に、ただこの国自身の未来の姿を示しているだけである」というマルクスの言葉を墨守していたのです。

Bloody Sunday

しかし「血の日曜日」は、プレハーノフの公式が瓦解するほど大きな振動でした。予期せぬ一般民衆の革命性を目のあたりにしたのです。

レーニンやトロツキーが特に注目したのは、ロシア社会の発展の特殊性、とりわけ都市形成の特殊性でした。彼らに拠れば、西欧では、政治的民主主義の主体となる小ブルジョアジーが都市を作り、都市はやがて中産階級の数的優位を背景として、政治的民主主義の中心という政治的意義を有して、資本主義の到来を迎えるのだと考えました。しかしロシアの都市は、中国流に、すなわち官僚的性格を帯びた行政的中心として発達したため、西欧のような政治的意義が重くなることはありませんでした。そこへ資本主義が押し寄せてきた。その結果、ロシアには資本主義的ブルジョアジーはいるが、政治的民主主義の主体となる中間的ブルジヨアジーは育たなかった。ロシアの小ブルジョアジーは、「自らの階級的綱領を持つことができず」革命において指導的役割を期待することはできないし、残る勢力は人民の多数を占める農民と都市に集中する新興のプロレタリアートである。しかし、農民が変革主体となることはない。農民は政治的にはまだ覚醒しておらず、独自の階級的目標や要求を掲げるには至っていない。彼らは、せいぜい国内の政治的無政府状態を拡大するにすぎない。こうしてレーニンらが導き出したのは、革命の唯一の担い手はプロレタリアートでありということでした。つまり、「ロシアで革命的な体制転覆をなし遂げうるのは労働者だけである。ロシアの革命的臨時政府は労働者民主主義の政府であろう」ということです。

この章で留意したいのは、ロシアのマルクス主義者たちが、武装蜂起こそが革命の必須要件であり、体制を物理的に破壊することこそが社会主義革命であると、宣言していることです。そしてロシア史のなかで最も虐げられてきた「農民」を蔑み、革命主体者からは除外しました。こうした共産党の極めて偏頗な指針が、で書いた「ホロドモールの悲劇」を生んだと言ってもよいと思います。日本共産党は常々「国民の命と日本の主権を守りぬくのが党の立場だ」と述べていますが、彼らの背骨である共産主義は、このように矛盾と独善から出発したものであり、それが赤色の意味だということです。


 1:ツァーリズム
帝政ロシア(16~20世紀初)の専制政治体制のこと。農奴制を基盤とした官僚制をしき、ロシア皇帝が強大な権力をふるった絶対君主制。1917年ロシア革命により崩壊した。その特徴は、教会が国家機関化し。ツァーリに対して隷属的であったこと、イワン4世(雷帝)のときに大貴族(ボヤール)を徹底的に弾圧してツァーリに権力を集中したことなどである。1917年の十月革命によって打倒され、皇帝ニコライ2世及びその家族の処刑をもってその幕を閉じた。

 2:セルゲイ・ユリエヴィチ・ウィッテ
Sergei Yul’jevich Witte (1849〜1915):オランダ人の技術者とロシア名門貴族の娘との間に生まれ、まず民間鉄道への勤務の後に交通省に入り、鉄道建設を推進。ニコライ2世のもとで、1892年に蔵相となった彼は産業育成のための通貨改革とともに積極的な外資導入を図る。ドイツの経済学者リストの弟子であったので、自前の工業をもたない国は先進国に従属すると考えたが自国の経済基盤が脆弱だったため、外国資本の導入に基づく工業化を進め、フランスから資金を借り入れ、ドイツから機械を購入して、シベリア鉄道の建設を推進した。1905年、日露戦争のポーツマス講和会議にロシア全権として出席。同年、革命運動の進展に対処するため,十月宣言を起草して立憲政を採用し、初の首相となった。革命に揺れる国内を収拾すべく行動したが、当のニコライ2世は終日狩りばかりして国政を省みないばかりか、一介の鉄道書記官にすぎなかったウィッテに意見されることに終生恥辱を感じていたという。

※ 投稿文中の敬称は略していることもございます。


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