ピエロのつれづれ

ウクライナ

クリミア半島の東はアゾフ海、西は黒海。この半島の北に広がるのがウクライナです。

ロシアの暴君・プーチンによって安寧な生活と国土を奪取されたウクライナは、ロシアを除けばヨーロッパで最も大きな国土をもつ国です。いえいえ、ロシアはその生い立ちも形態もヨーロッパとは異質(脚注 1 )なものをもっていますから、「ロシアを除けば」という言い回しは正しくないでしょうから、ウクライナは、ヨーロッパで最も大きな領土をもつ国と言い換えます。

北はベラルーシ、南西はモルドバとルーマニア、西はハンガリー、スロバキア、ポーランドと国境を接し、そして東にはロシアが迫っています。

温暖な黒海周辺を除くと大陸性気候と呼ばれる気候で、夏は暑く、冬は平均気温がマイナス5℃という寒さになり 時にはマイナス30℃を記録することもあります。国土の95%が平坦な農地で欧州の穀倉地帯として知られ、黒土の肥沃な土地では、小麦、テンサイ、ひまわりなどが大農場で生産されています。また石油や鉄鉱石などの天然資源にも恵まれています。

ウクライナの歴史
先史時代から、現在のウクライナに相当する地域は、3つの地理的要因によって多くの民族の移住と定住を繰り返してきました。黒海沿岸は、何世紀にもわたって地中海を抑えた勢力が押さえましたし、国土の中央をコの字のように流れるドニエプル川は豊かな草原を形成し中央アジアからの遊牧民を引き寄せました。そして、中北部と西部のステップと森林地帯は、北ヨーロッパと中央ヨーロッパに水路で結ばれる農業を支え、幾多の軍事紛争と文化伝達が頻繁に交錯する地域でした。

紀元前7世紀頃にはギリシャ人の植民地となり、後にローマ帝国の覇権下に置かれたことなどに象徴されるように、この地は異なった民族に次々と蹂躙されてきました。キンメリア人、スキタイ人、サルマティア人などのイラン系は、ギリシャの植民地として商業的および文化的関係を維持していました。

3世紀頃に東からやってきたゴート族はサルマティア人をウクライナから追放しますが、自分たちも5〜6世紀に東からのフン族によって駆逐されます。ブルガール人とアヴァール人。7世紀から9世紀の間は、チュルク系のハザールによる支配を受け、9世紀後半にはマジャール人(ハンガリー人)、その後に続いたペチェネグは10世紀を通じてウクライナ南部の大部分を支配し、11世紀末に遊牧民のポロヴェツに圧迫されてドナウ川の東へ追いやられました。

その間、ゲルマンの大移動の影響下で、5~6世紀にカルパティア山脈を越えてやってきたスラブ族の一部は西に移動し、他は南にバルカン半島に移動しました。東スラヴ人は、現在のウクライナ西部と中北部、ベラルーシ南部の森林と森林ステップ地域を占領し、さらに北と北東へ領土を拡大します。これがモスクワを中心とする未来のロシア国家の領土となりました。東スラヴ人は農業と畜産を実践し、布製造や陶磁器などの国内産業を盛んに興し、要塞化された集落を建設しました。その多くは後に重要な商業的および政治的中心地に発展してゆきます。そのような東スラヴ人たちの入植地の中に、ドニエプル川の西岸に位置するキエフがありました。

キエフ大公国
キエフ大公国は、9世紀後半から1240年にかけてキエフを首都とした東欧の国家です。正式な国号はルーシで、日本語名はその大公座の置かれた都キエフに由来しています。
ルーシ族と呼ばれる北欧系のヴァイキングによって建国され、リューリク朝によって統治されました。10世紀までに同地の東スラヴ人との混血によってスラヴ化し、キリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となります。11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つとしてビザンティン帝国などと比肩されましたが、12世紀以降は内紛と隣国の圧迫によって衰退してしまいます。1240年、モンゴル来襲によってキエフ大公国は落城し崩壊し、中心はモスクワに移りました。14世紀にはウクライナの大部分はリトアニア大公国、後にポーランドの支配下に入ってゆきます。なお、国民国家史観(領土内の民を一つのまとまったものとして統治する考え方)からすると、キエフ大公国はウクライナ、ベラルーシ、ロシアの三国の共通の祖国とされています。

コサック
14世紀から16世紀にかけて、ウクライナの南部から黒海沿岸にかけては、ポーランド、リトアニアなどからの逃亡農奴を中心としたウクライナ・コサック集団が形成されました。彼らは漁労を営みながらも、オスマン帝国やクリミア汗国(クリム・ハン国:トルコ系民族でイスラーム教を奉じたタタール人が起こした海洋国)などの港町で略奪行為を行いました。17世紀にはキエフを再建、本拠地をピーターモギラに移してギリシャ正教を保護しました。強大化するウクライナのコサック集団に対して危機感を抱いたのはポーランドです。何かにつけて抑圧姿勢を強めるポーランドに対し、1648年にはボグダン・フメリニツキーに率いられたウクライナ・コサックが全面闘争を発展します。が、形勢はフメリニツキーに不利で、劣勢を挽回するためにモスクワ大公国に保護を求めてしまい、これが後々の禍根となります。結果として、ドニエプル川の西側はポーランドの支配下となり、東側はモスクワ大公国の支配下となります。モスクワ大公国は、最初はウクライナの自治を認めていたのですが徐々に統制を強化し、ついにはエカテリーナ2世によって完全にロシアの一部となり、ここに、ウクライナ・コサック社会は完全に消滅します。
さらに、1772年のポーランド分割によって、ロシアはドニエプル東側を取得する一方で、ガリツィア地方(今日のウクライナ西部およびポーランド南東部)はオーストリア領土となります。この際、多くのウクライナ知識人がロシア帝国による文化的抑圧(ウクライナ語禁止令など)からドニエプル東側からガリツィアに逃れ、ガリツィアはウクライナ民族運動の中心となります。
エカテリーナ二世によってオデッサ港が建設され、19世紀末には、人口も40万となり、サンクトペテルブルグ、モスクワに次ぐ第三の都市となり、港町オデッサは、まさにロシア帝国の「世界への南の窓」となります。さらに、鉄道の建設とともに、ウクライナ東南部で石炭と鉄が発見されたことで、工業化も進展し帝国最大の工業地帯に発展してゆきました。

ロシアへの併合

1917年のロシア2月革命後、ウクライナにはキエフに民族統一戦線として中央ラーダ政府が誕生し事実上のウクライナ自治政府の役割を果たします。しかし、ロシアの臨時政府と自治拡大を巡って対立、10月革命を経て中央ラーダは「ウクライナ人民共和国」の創設を宣言します。しかし、ウクライナがロシアの一大産業地であったことから、ロシア・ソビエト政府はこの独立自治を認めず赤軍を派遣してロシア系勢力によるウクライナ人民共和国(ウクライナ・ソビエト共和国)を樹立。蔑ろにされた中央ラーダ政府はドイツと結び、以後4年間にわたる内戦に突入してしまいます。
1918年11月11日にドイツが連合国に降伏すると、ドイツ軍はウクライナから全面撤退。中央ラーダは再起をはかりますが、同盟国ポーランドの裏切りやチフスの流行、脆弱な組織構造などがあって赤軍に敗退。1920年秋にウクライナ人民共和国はその最後を迎えました。
1922年に成立したソ連邦は、制度の上では夫々の共和国の自由意思が結合した連邦国家であり、ウクライナもその例外ではありませんでしたが、スターリン時代になるとウクライナはモスクワに完全に統制されソ連の一行政単位になってしまいます。
スターリン時代に起きたホロドモールは、政策的な大飢餓です。ホロドモールとは、1932年から1933年にかけてウクライナで起きた人為的な大飢饉で、スターリンによって計画された、ウクライナ人へのジェノサイドでした。ホロドモールの語源は飢饉を意味する「ホロド」と、疫病や苦死を表す「モール」を合わせたもので、オスマン帝国によるアルメニア人虐殺や、ナチス・ドイツが行ったユダヤ人に対するホロコーストなどと並んで、20世紀最大の悲劇のひとつとして記憶されています。

ホロドモールの悲劇
スターリンは、工業の重工業化を推し進めるべく、1928年に国家成長計画「五ヶ年計画」を導入し、農業集団化はこの計画を成功に導く財政的政策のひとつとして推進されました。徴収した穀物を輸出して外貨に替え、工業化や諸外国への債務返済にあてるためです。当時のウクライナは、「ヨーロッパのパンかご」と呼ばれるほどの穀倉地帯で、1930年代に入る頃には、ウクライナの農民の大多数が集団農場(コルホーズ)で働かされていました。しかし、集団化政策の強行は政府の思惑通りにはいかず、広範な不況も重なって減産を招く結果となります。それでもスターリンは、工業化計画をあくまで強行するために、ウクライナのコルホーズに過剰な量の穀物徴収を課します。しかし、徴収は農民が食べる分の食料にまで及び、彼らはろくに食事もできないままに労働することを余儀なくされます。スターリンは不満を表明する農民にさらなる条例を制定し、農産物は人民(=共産党)に属するものとされ、パンの個人的な取り引きや落ち穂拾いまでもが、見つかると「人民の財産を収奪した」という罪状で罰せられました。都市部から共産党メンバーが見張りに送り込まれ、穀物徴収の目標達成のために食料などを没収していきました。さらに、1932年12月には国内パスポート制を導入。ウクライナの国境は封鎖され、農民は自由な出入りは許されず、村や集団農場に縛り付けられ、あたかもロシア革命前の農奴の再現にようなありさまとなります。
限られた農作物や食料も徴収された人々は、鳥や家畜、ペット、道端の雑草を食べて飢えをしのぎますが、それでも耐えられなくなり、遂には病死した馬や人の死体を掘り起こして食べたためチフスなどの疫病が蔓延しますが、極限状態は続き、時には、自分たちが食事にありつくため、そして子どもを飢えと悲惨な現状から救うために、我が子を殺して食べることもあったともいいます。通りには力尽きて道に倒れた死体が放置され、町には死臭が漂っているという有様でした。しかし、スターリンは、飢饉や飢えという言葉を使うことも禁じ、このような光景を世界が知ることはありませんでした。

2019年、ポーランド、ウラクイナ、イギリスの共同制作による映画『赤い闇 スターリンの冷たい大地で』は、イギリス人ジャーナリスト、ガレス・ジョーンズ(1905~35年)の実話をもとにしたホロドモールの悲劇が描かれています。余談ですが、ソ連に二度と入れなくなったガレス・ジョーンズは、極東に目を向け、6週間の日本滞在後に当時の満州国へ入ります。一時日本軍に拘束されますが開放。しかし、後に誘拐事件を模したソ連共産党員により暗殺されています。

飢饉によってウクライナでは人口の20%(国民の5人に1人)が餓死し、正確な犠牲者数は記録されてないものの、400万から1450万人以上(数字は参照する資料によってまちまちです)が亡くなったと言われています。さらに、600万人以上の出生も抑制されました。
ソ連政府がこの大飢饉を認めたのは1980年代になってから。しかし、被害を被ったのはウクライナ人だけではないとして、虐殺説については否定しました。

ロシアとウクライナの間では現在も「ホロドモール」がソ連による虐殺か否かについての議論が交わされていますが、一たび赤に染まった組織が自らの過ちを認めたことは歴史上一度もありませんし、人類史的な問題は、特定の思想による政治が指導した食料政策によりウクライナで異常な餓死があったこと、そのような事実を政治が隠蔽したこと、事実の解明がなされていないこと、にあるとピエロは考えます。

第二次世界大戦後
1939年9月1日のナチスドイツによるポーランド侵攻に始まった第二次世界大戦では独軍がウクライナの大半を占領します。このとき、ポーランドとソ連の敵であるドイツが、ウクライナ人の独立を支援するのではないかと期待するウクライナの人たちがいましたが、それは単なる幻想であることは直ちに判明します。結局ソ連軍が再度ウクライナを奪回し第二次世界大戦後は、ガリツィア地方、ベッサラビア地方、北ブコビィナ地方が新たにウクライナ(ソ連)の領土に編入されました。1945年、ソ連邦の構成共和国でありながら国連に原加盟国として参加。フルシチョフ時代の1954年にはロシア・ウクライナ併合300周年を記念してクリミア半島がロシアからウクライナに帰属替えされました。ソ連時代、ウクライナはロシアに次ぐ第二の共和国として経済的・人材的にソ連邦を支える地位にありました。歴代共産党書記長の中には、ブレジネフはドニプロジェルジンスク(現ドニエプロペトロフスク州)生れですし、フルシチョフ、チェルネンコはウクライナで党幹部としてのキャリアを重ねました。

1986年4月26日にチェルノブイリ原発事故が勃発、ウクライナ共和国内にも大きな被害を与えました。ペレストロイカの機運の中、1990年7月16日に共和国主権宣言。1991年8月24日に独立を宣言し国名を現在の「ウクライナ」に変更します。同年12月1日に独立に関する国民投票を行い、90%以上の圧倒的多数が独立を支持し、同時にクラフチュク最高会議議長が初代大統領として選出されました。12月3日ロシア共和国が独立を承認するに至って同国の独立(ソ連邦からの離脱)は決定的となり、更に、旧ソ連諸国からなる独立国家共同体(CIS)の誕生、そしてソ連邦解体に伴って12月末にウクライナは名実ともに独立国となりました。


 1:異質なロシア
ロシアがヨーロッパ的となったのは18世紀初めにピョートル一世が、湿地だったペテルブルクに首都を建設してからだというのが定説。そこでのロシア貴族は日常語としてフランス語を使用し、国家行政機構はスウェーデンの丸写しで、中央官庁に12あった部署のうち7つまでがドイツ語の名称を使っていた。また、各参議会の長官はロシア人であるにしても、副長官をはじめ重要なポストには外国人が高いサラリーで採用され(まるで日本の明治維新のよう)、行政部門全体のなかで外国人(ほとんどがヨーロッパ人)職員の占める割合は、10%にも達した。ピョートル期を通して最大の改革の一つである人頭税の導入も、フランスの税制を転用したものであったし、高等学術研究機関である科学アカデミーもフランスを範として創設された。これらの事実からわかるように、ヨーロッパはロシアにとって「先生」であった。しかし、この生徒は、それから300年経過した今でも「先生」の真意を微塵も理解できていない劣等生の暴君に支配されたままである。

※ 投稿文中の敬称は略していることもございます。


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