ピエロのつれづれ

憲法9条1項を考える

前章でも書きましたが、9条1項は1928年不戦条約(脚注 1 )や、1945年に成立した国連憲章2条などを念頭に置きながら推敲されたものです。それぞれの条項をみておきます。

1928年不戦条約
「<第1条> 締約国は国際紛争解決のため、戦争に訴えることなく、かつその相互関係において国家の政策の手段としての戦争を放棄することを、その各自の人民の名において厳粛に宣言する。
<第 2 条> 締約国は相互に起こりうる一切の紛争又は紛議を、その性質又は理由にかかわらず、平和的手段による以外には処理又は解決を求めないと約束する。」
原文も以下のように、とても短いものです。
Article I
The High Contracting Parties solemnly declare in the names of their respective peoples that they condemn recourse to war for the solution of international controversies and renounce it as an instrument of national policy in their relations with one another.
Article II
The High Contracting Parties agree that the settlement or solution of all disputes or conflicts of whatever nature or of whatever origin they may be, which may arise among them, shall never be sought except by pacific means.

Pact of Paris

1945年国連憲章 2条
3項
「べての加盟国は、その国際紛争を平和的手段によって国際の平和及び安全並びに正義を危うくしないように解決しなければならない。」
3. All Members shall settle their international disputes by peaceful means in such a manner that international peace and security, and justice, are not endangered.
4項
「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない。」
4. All Members shall refrain in their international relations from the threat or use of force against the territorial integrity or political independence of any state, or in any other manner inconsistent with the Purposes of the United Nations.

大日本帝国が、1928年の不戦条約に加入していたのにも関わらず支那事変を起こし、不戦条約の国際体制を脅かしたことは戦後の日本人には大きな瑕疵として残りました。新憲法起草者たちはこの歴史に大きな負い目を感じていて、新憲法にはどのようにしても国際法との連動性を強調しようとしたと考えても不思議ではありません。余談ですが、憲法9条が、憲法前文以外では、条文としてはただ一つ「日本国民は」という主語で始まる条文であることは、1928年不戦条約が「各自の人民の名において厳粛に宣言する」という表現のあったことを意識したものでしょう。また、日本国憲法「前文」で主権者とされた「国民」は、GHQ草案などでは「people」とされていた語句で、1928年不戦条約での「人民(people)」と同じ語です。しかし、現行憲法の第9条に「日本国民は」という主語を入れたのは、GHQではありません。
それは、国会で憲法審議にあたった、芦田均(脚注 2 )が委員長を務めた衆議院帝国憲法改正小委員会です。「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」という文言を9条の冒頭に挿入したのも、芦田の憲法改正小委員会です。一般に「芦田修正」と呼ばれているこの修正は、9条と「前文」との連動性を明確にするとともに、9条と国際法との相関関係も明確にする意図であったのだろうと考えられています。

日本国憲法9条1項は、「国権の発動としての戦争」だけでなく「国際紛争を解決する手段として」の「武力による威嚇又は武力の行使」も放棄しています。これは明らかに1945年の国連憲章2条4項に倣ったものです。しかし、こうした国際法規においては、いずれのケースでも自衛権の放棄までは宣言されていません。1928年不戦条約が放棄した「戦争」は、19世紀のヨーロッパ国際法における「戦争」を指していて、そこに自衛権や国際連盟が発動できる集団安全保障の制裁措置は含まれていないことは、現在では国際的に確立された理解です。それが、憲法9条1項が模倣している「国際紛争解決のため」の「国家の政策の手段としての戦争」という文言が意味することでしょう。

国連憲章51条は、「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」と定めています。
また、国連憲章2条4項には「すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない」と書かれていますが、これは1928年不戦条約と同じように、自衛権と集団安全保障を否定してはいません。それが、憲章2条4項の「国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法による」「武力による威嚇又は武力の行使」という文言が意味していることです。
国連憲章が武力行使一般を禁止するのは、「国際の平和と安全の維持」(国連憲章1条1項)のためで、国際法を無視するプーチンや習近平のような侵略者が現れたときに対抗措置をとることを禁止するのは、侵略者の横暴を許すことに通じてむしろこの「国際の平和と安全の維持」という人類共通の目的に反するものとなります。「国際の平和と安全の維持」という目的を達するためには、侵略者に対抗するための自衛権と集団安全保障が必要なことは明白でしょう。だからこそ、2条4項の武力行使の一般的な禁止と、自衛権と集団安全保障が、不可分一体の措置として、現代国際法の体系の中で認められていると理解するのがごく自然な解釈です。

日本は国際連盟加盟国でしたし、不戦条約にも加入していました。ところが1931年の満州事変以降の日本は、国際法秩序から極端に逸脱した行動をとり続け、結果的に第二次世界大戦の惨劇を招く一つの、しかも大きな要因となりました。その反省から戦後の日本国憲法は、国際法を遵守し、あらためて戦争を否定する宣言をしました。そしれが憲法9条1項です。つまり、言外ではありますが、国際法を遵守すると改めて宣言したのが憲法9条なのであり、跳ね返りのタレントが言うような、国際法に優れて世界平和をリードする規範を世界に先駆けて宣言したのが日本国憲法9条などというものではありません。

繰り返しますが、憲法9条がいう「国権の発動としての戦争」に自衛権の行使は含まれていませんが、「自衛権の行使」は、違法行為を除去するための合法的な公権力の行使です。ですから、「自衛権の行使」は、違法である「国権の発動としての戦争」でも「国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇又は武力の行使」にも該当しません。
憲法9条1項は、その成立過程から言っても国際法に従った解釈を求めているものです。しかし、憲法学者たちによるによる「通説」は、憲法9条と国際法とのつながりを敢えて分断した上で展開されている論説であると言わざるを得ないでしょう。

「通説」を絶対的に支持していた憲法学者の一人として、新憲法制定当時に東京大学法学部憲法第一講座担当教授であった宮澤俊義を挙げましょう。

宮澤は、浅井清の手になって学校教科書としても有名になった『あたらしい憲法のはなし』と同じタイトルで1947年に出版された自書において、次のように述べています。
「不戦条約では世界の国々が侵略戦争はしないと約束した。しかし、外国から攻められた自分の国を守るために戦争をするのは、さしつかえないことになっていた。ところが、新憲法は、侵略戦争ばかりでなく、どんな戦争でも戦争というものを全部否認している。いわゆる自衛戦争-すなわち、外国から攻められたときに自分の国を守るためにはじめる戦争-も、やってはいけないというのである。・・・どうか世界の国々も、ほんとうに世界に平和をうちたてるには、世界じゅうの国々がみんなで軍隊をやめ、みんなで戦争を放棄するよりほかに道がない、ということを知っていただきたい。そして、できるだけ早く日本の例にならっていただきたい。」(朝日新聞社版)

「世界の国々は日本を模倣しなさい」と主張する宮澤は、美濃部達吉らによる天皇機関説(脚注 3 )が発表されると美濃部らと同じように批判されますが積極的に異議申し立てをすることはありませんでしたし、大政翼賛会(脚注 4 )については、「万民翼賛は帝国憲法のみならず、肇国以来の憲法の大原則である」(『改造』1941年1月号)として積極的に擁護して、議会制民主主義は時局にそぐわず不十分であるとまで論じていました。

世論や思想が時流に沿うことを考慮しても、宮澤の思想は風見鶏のようにフラフラし通しでした。
終戦直後は、天皇機関説論争の以前と同じように帝国憲法の立憲主義的要素を擁護して、憲法改正は不要だと主張しますが、翌年の1946年になると、憲法改正は平和国家の建設を目指すものだと主張しはじめます。さらにその三か月後には、大日本帝国憲法から日本国憲法への移行は、ポツダム宣言の受諾によって国家の主権が天皇から国民へと革命的に変動したことだと説明します。この主権原理が変容したことで大日本帝国憲法の内容も大きく変容して、国民主権と両立し得ない部分はその効力を失いましたが、旧憲法は日本国憲法と法的に連続していて、日本国憲法のは大日本帝国憲法の改正として説明できると言いました。さらに1967年になると、天皇はただの「公務員」などと述べ、死去する1976年には、「なんらの実質的な権力をもたず、ただ内閣の指示にしたがって機械的に『めくら判』をおすだけのロボット的存在」(『全訂日本国憲法』 日本評論社)などと解説しました。

思想に背骨のないこのような憲法学者らによる「通説」は、その耳触りの良い言葉で日本中に広まってゆき、エリート特有の無責任な「良識」として扱われるようになり、それが思考停止傾向の強い国民層に支持されるようになりました。また、「通説」擁護派たちは常に、第二次世界大戦はただただ日本が自衛権を濫用して侵略行為を行ったから起こったと宣託し、狭量な国際感覚でなされた憲法9条解釈は、自衛権を認める国家は悪であり平和の破壊者であるという色調に覆われていったのです。
そしてさらなる問題は、「通説」支持派による国家的染色により、国防とか防衛などといった語句が混じる議論を進めようとすると、いわゆる良識派とか朝日新聞などの亡国マスコミはこぞって「右傾化」だなどと騒ぎ立てて世論を煽り、国家ならば当然に議論の対象となるそのような項目は長いあいだタブー視されてきたことです。その間に、中国は何をしてきたでしょうか、ロシアは北で何を企んできたでしょうか、北朝鮮のロケットボーイは何発のミサイルとを日本海に落としてきたでしょうか。日本大学危機管理学部教授・先崎彰容さんが言うように、防衛とは社会的インフラの一つであると、ピエロも思うのです。


 1:1928年不戦条約
1928年、フランスのブリアンとアメリカのケロッグが提唱して実現した戦争を否定する初の国際条約。主導者の名をとって「ケロッグ・ブリアン条約」とも、締結場所をとって「パリ不戦条約」とも称さ
れる。当初アメリカ合衆国、イギリス、ドイツ、フランス、イタリア、日本といった当時の列強諸国をはじめとする15カ国が署名し、その後、ソビエト連邦などが加わり63カ国が署名した。締結国がこの条約において目指したのは、「国際紛争解決のため戦争に訴えることは、違法である」「国際紛争を解決する手段としての戦争を放棄し、紛争は平和的手段により解決する」の二点。戦争放棄の理念は日本国憲法の源流ともなった。この条約を10年もしないうちに破ったのは日本。1937年の支那事変で、日本はケロッグ・ブリアン条約を破ったというのが世界の一般認識としてある。

Kellog & Briand

Aristide Briand:1862年3月28日-1932年3月7日。1920年代の国際協調外交を主導したフランスの外相。はじめはフランス社会党に属したが、1906年に脱退し社会主義から離れた。しかし外交面では大戦後の国際協調路線の推進者として活躍。フランスの首相を11回、外相を10回務めた。一次大戦の結果として占領したドイツ領ルールをめぐる問題の収拾を図り、ドイツ外務大臣のグスタフ・シュトレーゼマンとの間でロカルノ条約を交わす。この活躍で、1926年度のノーベル平和賞をシュトレーゼマンとともに受賞した。さらに、1928年にはアメリカのケロッグ国務長官とともに不戦条約を提案し成立させるなどの多大な外交成果を上げた。1929年には、ヨーロッパ統合を構想し、国際連盟に「ヨーロッパ連合」を提唱したが、同年に勃発した世界恐慌の煽りを受けて失敗に終わる。シュトレーゼマン、ケロッグと並ぶ、戦間期の国際協調を実現した代表的人物。ブリアンはシュトレーゼマンとケロッグ同様、フリーメイソン。また、ジュール・ヴェルヌの『15少年漂流記』の二代目の少年大統領ブリアンは彼の名前からとられた。

Frank Billings Kellogg:1856年12月22日-1937年12月21日。20世紀初頭に、連邦政府・州際通商委員会の特別顧問を務め、スタンダード石油、ハリマン系鉄道会社などのトラストの摘発、調査で活躍して名声を博し、1912、13年にはアメリカ弁護士協会会長となった。アメリカ合衆国のクーリッジ大統領(共和党)のもとで国務長官を務める。フランス外相ブリアンの提唱を受けて、1928年に不戦条約(ケロッグ=ブリアン協定)を締結し、国際協調外交を推進した。その功績で1929年にノーベル平和賞を受賞した。

 2:芦田均
1887.11.15-1959.6.20。京都府出身。東京帝国大学仏法科卒業後外務省入り、ロシア、フランス、トルコ、ベルギーに駐在。ロシア革命を身近に見、パリ講和会議も経験。満州事変における政府の政策を不満とし、1932年(昭和7)退官。同年立憲政友会から衆議院議員に当選。1933~1940年までジャパンタイムズ社長。1945年10月幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)内閣の厚相に就任。GHQ(連合国最高司令部)内の抗争も絡んだ復興金融金庫融資による昭電疑獄事件で1948年10月で逮捕される。1958年2月無罪となるも、政界における地位を取り戻すことは無かった。

 3:天皇機関説
ドイツの法学者イェリネックの国家法人説を帝国憲法の解釈に適用したもので、主権は国家にあって天皇にはなく、天皇は国家を代表する最高の機関にすぎないとした学説。美濃部達吉などによって主張され、大正デモクラシー期の政党内閣の理論的支柱となった。しかし昭和期に入り,軍部・右翼によって徹底的に弾圧された。

 4:大政翼賛会
1940年10月に第2次近衛文麿内閣によって、新体制運動を推進するために創立された組織。当初は、国民各層の有力な力を結集して軍に対抗できる強力な国民組織をつくろうとしたものだったが、政府に指導される公事結社として変容して行政補助機関のようなものとなった。東条英機内閣下では国民統制組織としての色彩を強め、大日本婦人会などの諸国民組織運動をたばねて戦時体制を支えた。

※ 投稿文中の敬称は略していることもございます。


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