和歌山の海にIRがやってくる
「何を今頃言ってるのかと思う。前回の知事選挙でIR断固推進を主張して多数の支持を得て知事になったので、民意は十分反映しているつもりだ」
これは、令和4年1月24日の和歌山県庁における知事・仁坂吉伸の発言です。県と和歌山市のIR誘致をめぐって、市民団体「カジノ誘致の是非を問う和歌山市民の会」が、2021年11月から12月にかけて署名運動を行い、約2万人の署名を集めて、和歌山市長の尾花正啓にIR誘致の賛否を問う住民投票条例の制定を直接請求したことに対する仁坂知事の反応がこの言葉でした。住民の疑問に「今さら、うるせい話だ」と言っているようなもので、首長の品格を疑うに余りあるものがあります。
「前回の知事選挙で」と言っているのは、2018年11月25日に実施された知事選挙で、仁坂が246,303票を獲得し共産系二位候補の61,064票に大勝したことを指しています。得票差が4倍もありますから「多数の支持」と主張することの根拠はありますが、この選挙の投票率は38.3%で、仁坂が得た票は全有権者の30.17%に過ぎません。これを「多数の支持」と捉えるか否かは仁坂の主観の範疇でしょうが、「民意は十分反映している」と断定するには程遠い数字だとピエロは思います。
また、2020年03月11日の県議会予算特別委員会で、「IR誘致は地域の衰退を抑えるために必要で起死回生の大型投資はこれしかない。せっかくのチャンスを見逃すいわれはない。3千億円の経済波及効果がある他の代替手段はあるのか。」と発言し、ギャンブル依存症対策についても「国が重層的で多段階的な厳しい規制を設けていて、論理的にはギャンブル依存症は排除できると考えている」とIRにはもろ手を挙げて賛成している珍しい知事ですから、「何を今頃」とうそぶいても和歌山県民は驚きもしないでしょう。
和歌山でIR候補地となっているのは、和歌山市の南端で和歌山県立自然博物館に隣接する人工島「和歌山マリーナシティ」です。高校野球で知られる智弁和歌山高校から南西に約4kmの所にあります。「和歌山マリーナシティ」は1994年に開催された世界リゾート博に合わせて建設されたもので、野村総研の経済効果レポートでは年間で438億円の事業所得があり、14,800人の雇用機会が創出されるとしていましたが、そんなドル箱のはずだったものが今度はIRに変身しようとしています。(経済研究所の常で、誘致賛成者をぬか喜びさせた責任を野村総研は完全無視しています)
しかし、わずか30年前の大失敗を振り返ることもなく、「論理的にはギャンブル依存症は排除できると」真顔で考えている仁坂に、候補地である和歌山市の多くの政治家は及び腰です。
和歌山市・尾花市長は、住民投票の結果に法的拘束力がないことや、多額の費用がかかるなどとして「住民投票を行う意義が見いだしがたい」として住民投票条例の制定そのものに否定的な姿勢を貫いています。住民投票に意義があるか無いかを判断する権限は、尾花市長、君にはありません。そして、そんな越権を振りかざす君は月額1,030,000円(和歌山県でダントツ一位)もの給料をもらっていて、それこそが「多額の費用」だとピエロは思うのですが、君はどう思いますか?
さらに悪いことは、臨時議会最終日となる令和4年1月27日の本会議では、このような署名運動について、自民・公明両党議員たちは「仁坂和歌山県知事はIR誘致を掲げて当選しているため、民意は反映されている」といって仁坂吉伸にすり寄っているばかりでなく、「和歌山市ではなく、事業主体となる県に問うべき」とのたまいました。ここまで無責任を決め込むに及んでは敵前逃亡の謗りを逃れられないでしょう。県の意向を是認するだけなら君たち市会議員の存在意義はありません。なかでも公明党和歌山議員団諸君は、自分たちの政策方針について党HPで次のように宣言しています。
「和歌山市議会公明党議員団8名は、一致団結し「大衆とともに」との立党精神を胸に、現場第一主義をモットーとして和歌山市の医療・福祉・環境・教育・防災対策に取り組み、安心で安全な和歌山市の構築に、全力で取り組んでまいります。」
敵前逃亡する君らにとって「現場第一主義」とは、和歌山に君臨する田舎の帝王・二階の勢力下にある県政を無条件に忖度することであり、全力で取り組んでいると称する「和歌山市の環境・教育」は選挙に勝つためにだけ掲げられたPM2.5よりも軽いご託に過ぎません。選良としてあるべき地位なのに、令和4年1月27日の和歌山市本会議に在籍しこのように市民の声を無視した自民・公明両党議員は以下の人たちです。
自由民主党市議団 (8人):中谷 謙二、中村 元彦、丹羽 直子、吉本 昌純、井上 直樹、古川 祐典、宇治田 清治、遠藤 富士雄
公明党議員団 (8人):中尾 友紀、堀 良子、西風 章世、園内 浩樹、中塚 隆、薮 浩昭、奥山 昭博、松本 哲郎
地方自治法第12条に曰く、「普通地方公共団体の住民は、この法律の定めるところにより、当該地方公共団体の条例(地方税の賦課徴収・分担金、使用料・手数料の徴収に関するものを除く)の制定又は改廃を請求する権利を有する。」
住民投票に意義がないとする尾花市長の言い分は、この法律に保証される住民の権利を蔑ろにすることであり、市政に住民の意思が十分に反映されていないという状況が現実に存在することを全面否定する不謹慎な態度に他なりません。
みなさんご存じのように、住民投票には「拘束型」と「諮問型」の二つがあり、大阪都構想のように一の地方公共団体のみに適用される特別法の是非を問う住民投票には法的拘束力が生じますが、今回のような各自治体が特定の課題についての住民の賛否を問うための「諮問型」住民投票には、尾花市長の言うように法的拘束力がないことは事実です。そもそも日本においては住民の意見はそれほど尊重されず、自治体で常設の住民投票条例を制定しているのは、令和2年末時点でわずか78自治体に留まっています。日本全国にある自治体数は2022年初頭で1724ですから、わずかに4.5%。近畿二府四県では、大阪府豊中市、大阪府岸和田市、大阪府阪南市、兵庫県宍粟市、兵庫県丹波篠山市、奈良県橿原市、奈良県生駒市、滋賀県草津市、滋賀県野洲市、滋賀県米原市、滋賀県愛荘町の11市で5.6%に過ぎません。地方自治法第12条にある「制定又は改廃を請求する権利を有する」住民の立場は、かようにして政治家の先生方によって軽んじられて、その権利は絵に描いた餅のようになっているのが実態です。
このような現状をピエロは次のように推測します。
常設の住民投票条例を制定している自治体の条例にはほぼ例外なく「市民、市議会及び市長は、住民投票の結果を尊重しなければならない」と明記されています。これが地方で権力を手中にした議員先生方にとっては、我慢ならないことなのでしょう。民主政治において最終的な意思決定者は、住民・有権者であるべきです。住民投票は有権者が直接的に意思決定過程に参加できるという点で民主政治にとって有益な手段の一つであるからこそ、前述の地方自治法第12条があるのだと思います。しかし、代議制民主主義の担い手である議員にとっては住民投票のような直接民主制は、自分たちの意思決定を否定することにもなる存在として日本では受け取られています。住民投票制度が確立して日常的に利用されているスイス・チューリヒ市のような場合には、直接民主制と間接民主制は「共存」し、少なくとも住民投票制度は議会と対立するものでも、否定すべきものでもないという認識が常にあります。そこには「民主的」姿勢が全ての住民のなかにしっかりと浸透しています。10年程前の東海大学政治経済学部の調査によると、チューリヒ市議たちへ行った「住民投票の結果が市議会の決定に優越するのは当然である」という設問について、97.8%の議員が住民投票の優越性を認めていたそうです。マッカーサーによって植え付けられた日本型民主主義は、保身に終始する議員先生方の場当たり的な都合によって解釈され、住民・有権者の意思表示は投票行為に限定されたままです。
民主主義(Democracy)の語源はギリシャ語の「人民(demos)による支配(kratus)」であると言われています。アテネにおける民主政の原理は、「自由」と「平等」にありました。政治的自由は、治者と被治者が順次交替することであり、平等に支配するという意味で担保されるものであったそうです。その意味ではまさに古代アテネでは、この語源通りの民主政が行われていたと言えるかもしれません。このような古代民主政が、奴隷ではない成年男子だけに与えられた市民権の限定と奴隷制経済とに支えられていたという背景はありますが、公職につくものさえクジ引きで決めたという歴史は、2500年経った今でも大切な政治的視点を与えてくれます。
丸山真男は、一流の思想家であるほど、その人間論と政治秩序への認識が自身の思想と連結する傾向があると指摘しました。「政治を真正面から問題にして来た思想家は古来必ず人間論(アントロボギー) をとりあげた。プラトン、アリストテレス、マキアヴェリ、ホップス、ロック、ルソー、ヘーゲル、ニーチェー。これらのひとびとはみな、人間あるいは人間性の問題を政治的な考察の前提においた」。また、プラトンはその書「プロタゴラス」の中で、「すべての国事の処理は、正義と節制を通じて行われなくてはならず、それは全ての国民の徳性にかかわるものである。この徳性はすべての人間がもっているべきであり、さもなければ国家は成り立たない。」と、市民は勿論として政治を為す者にも「徳性」は不可欠であると言いました。
IR誘致に疑問の声をあげた市民に「何を今頃言ってるのか」と否定した知事・仁坂吉伸や、「住民投票を行う意義が見いだしがたい」と地域住民に意見表明の機会さえ認めない和歌山市長・尾花正啓に、プラトンの言うすべての人間が持っているべき「徳性」のかけらも、丸山が言った「政治的な考察の前提に置く人間性」などを見ることはできません。
第五代紀州藩主だった徳川吉宗は、自ら木綿の服を着て「質素倹約」を率先し、和歌山城大手門前に訴訟箱を設置して直接訴願を募り庶民が要望や不満などを直訴できる環境を整えました。そのような紀州の美風はどこに消えたのでしょう。口の悪い人は「和歌山は近畿の盲腸だ」など言って高度成長に遅れた和歌山を揶揄しますが、そのお蔭で和歌山は近畿圏内でもずば抜けて豊かな自然が残る自治体です。にもかかわらず、人間が創ったのではないかけがえのない美しい景観は、権力者のうぬぼれと利益一辺倒の企業「マネー」に変換されようとしています。失敗しても企業は撤退すれば終わりですし、誘致を推進した政治家も地域破壊の責任を取ることはありません。しかし、残される住民は自分たちの土地に生き続けるのです。