ピエロのつれづれ

ロシア人とウクライナ人の歴史的統一について

「ロシア人とウクライナ人の歴史的統一について」はウラジミール・プーチンが2021年7月に発表した歴史論文で、2022年2月24日から始まったロシアのウクライナ侵攻の論理的背景と目されている論文です。

重層レベルでのウクライナへの介入を歴史解釈を用いて正当化しようとしたものですが、論理的妥当性を歴史に求めたことが逆にプーチン自身の欺瞞と独善、独断を証明するものとなっています。当初はクレムリンのウェブサイトで英語でも発表されましたが、現在は閲覧ができません。プーチンによるウクライナ侵略を報道する日本のマスコミではあまり紹介されない資料ですので、視聴率本位のTVから垂れ流される情報を正しく理解するための資料として参考になるのではとピエロは考えましたので、ここに掲載いたしました。

海外では多くの研究者やマスコミが、この論文の分析をされていますが、ピエロは2021年12月2日にNew Eastern Europeに掲載されたJoshua Kroeker氏(脚注 1 )による記事が、このプーチン論文への適切な批評と考えました。

原文はこちらこちらです。(リンク切れの節は、ご容赦ください)

なお、文中の年月は本文寄稿時を基点にしたものです。

 

歴史家ウラジミール・プーチンによるウクライナの歴史の政治的改変

おおよそ半年前から、クレムリンのウクライナに対する理解に根本的な変化がありました。 ウクライナが独自の道を歩み続ける現状に対し、ウラジーミル・プーチンは、ウクライナが、その民族、言語、文化は単独には存在しえないという、これまで以上に極端な立場を表明しました。 プーチンにとって、ウクライナはこれまでも、そしてこれからもロシアの一部であり続けるのです。

ウラジーミル・プーチンは、ロシアで最も長い期間にわたって在職にある大統領で、ソビエト後にもたらされた安定の擁護者であり、過去21年間で多くのことを成し遂げてきた大統領でもあります。 1990年代のボリス・エリツィンが残した経済的混乱からロシアを救い出し、チェチェンでの2つの戦争に勝利し、前例のない規模の繁栄と技術開発をロシアにもたらしました。 彼はまた、世界に対してロシアの伝統的な価値観を擁護し、これまでの民主主義と西側との実りある関係を犠牲にして、ロシアを再び大国として世界地図に載せようとしてきました。 プーチンは、地球上で最も強い男、現代の独裁者、または最も偉大なロシア人など多くのタイトルをもっています。

しかし、近年になって、彼は新たな驚くべきタイトルを求めているように思われます。プーチンは、政治力と大統領の任務以外の事柄に夢中になっていて、現在の彼は、歴史の執筆(むしろ書き直し)と再構築にますます忙しくなり、その根拠は全くありませんが「歴史家ウラジミール」のタイトルが新たに付けられています。

危険な物語

2014年以来(脚注 2 )のウクライナへの固執に沿って、プーチンはウクライナとロシアの歴史に彼の個人的な理解を用いて、非常に危険な物語を広め、制度化しようとしています。 過去2年の間に二回にわたり、プーチンはロシア連邦の公式の歴史を執筆しました。
最初、プーチンは第二次世界大戦におけるロシアの役割について書きました。そしてこの7月には、プーチンは「ロシア人とウクライナ人の歴史的統一について」と題して、約5,000語からなるウクライナの歴史を書きました。 これは、クレムリンのウェブサイトでロシア語と英語の両方で公開されました。
プーチンが綴ったこの「歴史」は、民主主義と西側への道を選択したウクライナの信用を傷つけるように設計されており、不正確さ、論理的誤り、政治的主張、イデオロギーなどが散見されるものです。これは、プーチンとシロヴィキ(脚注 3 )によってサポートされている陰謀的な「ロシア vs 西部」の考え方を反映したものと言えるでしょう。 プーチンは、この長い論文を通して、ウクライナによる大ロシアからの独立を反証するために、修正主義による歴史的物語を用いています。 本稿で示されるように、最終的にはプーチンの論文は歴史的真実とはほとんど関係がありません。 全体として、それはロシアがウクライナを失ったことを認めたがらないイデオロギーによって書かれたイデオロギーの作品に過ぎません。

この論文の中でプーチンは、9世紀の初めから今日までのロシアとウクライナの間の絡み合った歴史を述べています。これについての彼の視点は、「…現在をよりよく理解し、未来を見るには、歴史に目を向ける必要がある…」というものです。 当然のことながら、彼の議論は、かつてそこにあったものは全て常にそこにあるべきであり、そして常にそこにあることを意味しています。 したがって、この論文は、キエフ大公国と古代ロシア、ウクライナ、ベラルーシの間の相互関係を分析することから始まっています。 そして、モンゴルの大群の支配下にあった土地の断片化が描かれ、15世紀にいくつかの公国の下での(再)統一戦争(彼のテキストでは「解放の戦争」と書かれています)へと筆を進めています。
そして18世紀後半には、ガリシア、今日の西ウクライナ、第一次世界大戦が終わるまでオーストリア゠ハンガリー帝国の一部であり続けた範囲が、大ロシアによってほぼ完全に統一されたとしています。 その後、プーチンは彼の論文の大部分を「ロシア人とは別の国としてのウクライナについての考え」を批判的に分析することに専念し、このような主張には根拠がなく、ロシアを弱体化させることを目的とした(西洋志向の)国粋主義者である知識層によって作られた単なるでっちあげであると主張しています。最後に、ロシアとウクライナのこの包括的でありながらも短い歴史の中において、ウクライナがソビエト連邦内で特別な地位を享受したと、矛盾する主張をしています。

プーチンによると、この時期にウクライナの国としての言語、文化、アイデンティティが育まれたとし、1990年代にはロシアがウクライナに奪われたと主張していますが、それはウクライナが、国家を(強制的に)まとめていた共産党の崩壊に伴ってソビエト連邦を離れることを熱望していたことがその根拠であるとしています。しかし、プーチンが書き連ねているこれらの事例は、この論文を構成する一貫性のない物語の雑多な寄せ集めにすぎないのです。

独立した道

プーチンの主張の本質は単純です。ウクライナとロシアは切り離せないものであり、全体の2つの部分であるとしています。プーチンは、過去30年間に両国間で発生したひび割れを、強く嘆いています。彼の目には、ウクライナ人は「歴史を神話化し、書き直し、私たちを結びつけたすべてのものを編集し始めた」のだそうです。そして、ウクライナがロシア帝国とソビエト連邦の一部であった時代を占領と呼び、ウクライナの独立は愚行と見なし、それは19世紀にポーランドで始められた陰謀だとしています。その後、そのような考えは20世紀に西ヨーロッパで普及し、現在は米国(およびカナダ)が主導しているとしています。しかし、プーチンが認めることを拒否しているのは、ロシアとウクライナ(プーチンの言葉で言えば、ロシアとマロルシア[小ロシア])の間の「分裂」は常にある程度存在していたという事実です。

5,000語の論文では、国、言語、文化の存在を反証するのに十分ではありません。その説明をいたします。

第一に、プーチンが、ロシアとウクライナの相互の歴史を強調するのは正しいことです。それらは確かに絡み合っており、互いに解きほぐすことは不可能です。両国の運命は何世紀にもわたって他方に依存してきたか、少なくとも影響を受けてきました。ロシア人とウクライナ人は一緒に苦しみ、一緒に戦い、一緒に征服しました。彼らは一緒に生き、存在し、そして死にました。ただし、これは二つの国が同一であることを意味するものではありません。 プーチンの主張の問題点を実証するためには、ロシアとウクライナの歴史が互いに並列して進んできたのではないいくつかの例を示す必要があります。

ウクライナの西側、すなわちオーストリア゠ハンガリー帝国、そしてそれ以前のリトアニア大公国での経験は、ウクライナがロシアとは異なる文化的、言語的、歴史的、国家的発展を遂げた事例です。現在の西部ウクライナは、何世紀にもわたって非スラブ人との民族間および異文化間の関係を築いてきました。一方、ロシアには同じような経験はありません。確かに、ロシアは西ヨーロッパと強い関係を持っていましたが、ロシア人はウクライナ人と同じようにドイツ人、オーストリア人、ハンガリー人などのコミュニティと一緒に住んだことはありませんでした。

二つ目は、第一次世界大戦後の1917年に設立されたウクライナ人民共和国に関するものです。本質的に社会主義国でしたが、ウクライナ人民共和国はロシアのボルシェビキ(脚注 4 )ほどには革命的ではありませんでした。ウクライナ人民共和国は、対立ではなく、ロシアと対等な立場でウクライナ人のための国民国家を創設しようとしたのです。 1917年11月、ウクライナ共和国は、次のように宣言しました。「ロシア共和国から離れるのではなく、団結を維持し、私たちの力がロシア全体を助け、ロシア共和国全体が平等で自由な人々の連合になるために、私たちは自分たちの土地に厳然として立つものです。」 1世紀前、ウクライナ人は独自の州を創設しました。この州は、当時、ペトログラード(現在のサンクトペテルブルク)のロシア臨時政府によって支援されていまし、 20世紀初頭に創設されたウクライナ国家は、ロシアやロシア人に対する敵意から作られたものではありません。 むしろ、それはウクライナの人々が彼ら自身の文化的および言語的独自性を認識した結果として作られたものなのです。

国を定義するもの

ここでは、たとえばカナダとイギリスを例にして、ウクライナとロシアの歴史的統一と不統一をよりよく理解するために論理的な類似点を描いてみましょう。

カナダとイギリスは、ウクライナとロシアと同様に、長い間共有されてきた歴史が互いに絡み合っています。大きな相互依存の期間には、カナダの民主主義、法制度、憲法などはすべて英国の植民地としてのカナダの歴史の産物でした。それでも、カナダ人とイギリス人がひとつであると主張する人は誰もいないでしょう。類似してはいますが、彼らは明らかに異なる人々です。 ウクライナとロシアは同様の歴史を共有し、何世紀にもわたって一緒に旅をしてきましたが、独自の独立した経験もありました。彼らの歴史は、プーチンが望んでいるように、単に西側政府と「ウクライナのファシスト」の「仮説」ではないのです。それらは、歴史として十分に文書の中に示されているのです。

プーチンの犯したもう一つの間違いは、彼が国家の概念を定義することができない(または定義することを望まない)ということです。

ロシア人とウクライナ人は一つの統一された国であると主張しているにもかかわらず、彼は正確に国を構成するものの定義を示していません。彼は、ウクライナ語は単にロシア語の方言であり、どちらも1つの大きなロシア語に属しているという前提に基づいて議論することを好んでいます。また、各方言がより大きな言語をさらに豊かにしたことを認めていますが、2つを古いロシア語に起源を求め、何世紀にもわたってロシア人とウクライナ人は共通の言語を共有していたため、2つを区別する意味はないと主張しています。 しかし、プーチンは、ロシア人とウクライナ人の全てが必ずしもこの「1つの共通言語」を共有してはいなかったという事実を無視しています。むしろ、プーチンが唯一の「古代ロシア人」として認識している教会スラヴ語よりも、土語のほうがはるかに重要な役割を果たしてきました。さらに、言語が国の決定的な特徴であると示唆するのは間違っています。

カナダとイギリスの例に戻りましょう。カナダ英語とイギリス英語は、間違いなくロシア語とウクライナ語よりも似ています。カナダ人とイギリス人はお互いに簡単にコミュニケーションをとることができますが、ロシア人はウクライナ語を理解できないことがよくあります。繰り返しになりますが、英国首相やカナダの首相は言うまでもなく、カナダ人と英国人はどちらも英語を話すため、言語の類似性に基づいて統一された1つの国であると主張する人は誰もいません。国と人は単なる言語以上のもので構成されているのです。

プーチンは最後に、ウクライナ人は「アイデンティティの強制的な変更」を経験し、現在も経験していると結論付け、その結果、「西側政府と右翼過激派によって強制された反ロシア的アイデンティティ」を受け入れlてしまったとしています。そのような考えは、複雑で抽象的な事象や概念を、単一のレベルのより基本的な要素から説明しようとする還元主義的なものであり危険なものでもあります。しかしそのようなプーチンの考え方は現在、国際レベルでウクライナに影響を及ぼしています。プーチンはこのような歴史的修正を通して、ウクライナは存在しないものであり、また自分が望もうとする真実を反映するようにした歪んだ態度をもって、ロシア人とウクライナ人の両方の集合的記憶とアイデンティティを構成するという新しい歴史的記憶を構築しようとしています。

パラダイムシフト

ロシア政府が歴史的権威を体系的に引き継ぐため、この歴史的物語についての議論はロシア内においては不可能になりつつあります。州レベルでの歴史に対するそのような管理の例は、プーチンが2014年に発効させた「反ナチス法」です。ナチズムの復権に対するこの法は、第二次世界大戦中のソビエト連邦の歴史を法的に保護したものです。これにより、裁判所は、戦争中にソビエト連邦に関する「虚偽の情報」を広めた人、戦争の記憶や象徴を冒涜した人を罰することができることとなりました。有罪判決を受けた人は、罰金や懲役刑に処せられる可能性があります。歴史的事実を議論することは罰せられる犯罪行為となり、単一の歴史的説明は法律となりました。社会のほぼすべての分野で広まっているプーチンの変更された歴史に対しては、ロシア内で語られるチャンスはほとんどありません。

プーチンがウクライナの歴史を書き直している今、ウクライナの独立を認める(または文化的/言語的な違いを共有する)人々にとって重大な結果が生じるおそれがあります。 ウクライナ人とロシア人が言語と歴史において一つにできない場合、何が一体らを一つの「人々」と言えるようにするのでしょうか。答えは簡単です。

ウクライナ人とロシア人は同一ではなく、彼らは一つの「人々」となのではありません。これらの2つの国の関係とそれらの絡み合った歴史を語る際によく使われる一般的な比喩は、兄と弟のそれです。それ自体は問題がありますが、これはウクライナとロシアがそれぞれ独立国家であるという好ましい理解の助けとなります。これは、2014年のユーロマイダン(脚注 5 )まで、ソビエト後の時代にモスクワとキエフで好まれた政治的概念でした。ロシアとウクライナ(およびベラルーシ)は、3人の兄弟であり、別々の民族であり、類似しているが最終的には異なる歴史、言語、文化を共有している国々なのです。

およそ半年の間、この問題についてのクレムリンの理解にパラダイムシフトがありました。

ウクライナは何世紀も前から独自の道を歩み続けていますが、ウラジーミル・プーチンとクレムリンは、ウクライナにはその独自の民族、言語、文化が存在しないという、これまで以上に過激な立場をとっています。プーチンにとってウクライナは、これまでも、そしてこれからも、より大きな帝国の州にすぎないロシアの一部であり続けるでしょう。

今、プーチンはさらに前のめりになっています。彼はロシアとウクライナの間の境界線、したがって現実と想像力の間の境界線、国際法とイデオロギーの間の境界線を消し始めています。 プーチンが理解できないのは、ウクライナがもはやロシアと並行ではない道を選んだということです。ウクライナ人は民主主義、真実、繁栄を望んでいます。ウクライナ人は、何世紀にもわたる集合的な歴史を共有してきたヨーロッパのコミュニティの一員になりたいと考えています。ウクライナはロシアではなくウクライナになりたいと思っているのです。ウクライナは独自の歴史を望んでおり、その権利を有しており、そしてロシアとウクライナの歴史を書くことは、政治家やイデオロギーなどではなく、歴史家の仕事なのです。


 1:Joshua Kroeker
Joshua Kroekerは歴史家であり政治学者。カナダのブリティッシュコロンビア大学、ドイツのハイデルベルク大学、ロシアのサンクトペテルブルク州立大学で学位を取得。さらに、ハイデルベルク大学で博士号を取得。現代ロシアとウクライナの歴史と政治を専門としており、サンクトペテルブルクのヨーロッパ大学を拠点とするエネルギー政治ジャーナルENERPOの編集長を務めている。

 2:2014年 クリミア危機
2013年当時にウクライナ大統領だった親ロシア派のヴィクトル・ヤヌコーヴィチは、EUとの政治・貿易協定の調印を見送ると、親ヨーロッパ派の人たちが「ユーロマイダン」と呼ばれる抗議活動を展開。デモ参加者のうち100人単位の人が親ロシア系の警察、狙撃手により殺害された。しかし、国内の強い反発を受けたヴィクトル・ヤヌコーヴィチはロシアに亡命。(2014年4月にウクライナの検事総長はヤヌコーヴィチが国家財政に1000億ドル(約10兆円)規模の損害(=横領)を与えていた可能性があると述べた。) ヤヌコーヴィチ失脚後、親西欧派による新政府が立ち上がると、2014年2月末から親ロシア派との対立が激化する。同27日に、ロシアの覆面部隊が議会等を占拠し、親ロシア派のセルゲイ・アクショーノフを指導者として選出させる。これを受けて、クリミア自治共和国議会は、ウクライナから離脱してロシアの一部となることを宣言。2014年3月18日、ロシアは一方的にクリミアをロシア領として併合した。

 3:シロヴィキ
ボリス・エリツィンやウラジーミル・プーチン政権内の治安・国防・情報機関の出身者や、彼らが形成する政治勢力をさす用語。高等教育を受けていること、実用的な法秩序を求め、過去のビジネス経験を政府内のポストに持ち込むこと、ロシアの国益を第一に考え、強いロシアの再興を目論んでいること、人権や民主主義に対してはあまり配慮がないこと、親中派であることが特徴的である。プーチンはシロヴィキがそのような政治姿勢とスキルを政権内で発揮することを大変に好んでいる。この結果、内政についても強権的な姿勢が目立つようになった。2003年にユコス(2006年に裁判所から破産宣告された石油会社)会長ミハイル・ホドルコフスキーがプーチン大統領を批判するようになると、2005年に収監された(現在はロンドンに亡命中)。2006年10月にホドルコフスキーとユコスとの「連帯」を表明していたジャーナリストのアンナ・ポリトコフスカヤが暗殺される。2006年11月23日にはポリトコフスカヤ射殺事件の真相の究明に関与したアレクサンドル・リトビネンコも暗殺された。

 4:ボルシェビキ
ソ連共産党の前身。ロシア十月革命を指導した政治的グループで、ロシア語の「多数派」を意味する。ロシアのマルクス主義者は 1898年ミンスクでロシア社会民主労働党を結成したが、1903年第2回党大会において、党員の資格をきびしくするように要求するレーニン派と、それに反対するマルトフ派の間に対立が起った。レーニンの主張は 28対 22 (保留1) で敗れたが、その後党内における自組織の自治を否定されたブント派ら7人の代議員が退場したため逆に多数派となり、党人事などで優位を占めるようになった。これ以後レーニン派は自派を多数派と称し、マルトフらを少数派 (メンシェビキ ) と呼ぶようになった。職業革命家による少数精鋭主義と絶対中央集権的な党組織をつくりあげ、1917年の十月革命で政権を獲得し、翌年ロシア共産党と改称した。革命的な共産主義者、あるいは過激派の意にも用いられることがある。また、レーニン時代の党派拡大のために実行された苛烈なテロ行為でも知られる。

 5:ユーロマイダン
ウクライナの首都キエフにある独立広場において2013年11月21日の夜に始まったデモ活動全般のことである。 2004年の大統領選挙は、ロシア寄りの与党代表で首相のヴィクトル・ヤヌコーヴィチと、ヨーロッパへの帰属を唱える野党代表で前首相のヴィクトル・ユシチェンコの激しい一騎討ちだった。ヤヌコーヴィチの当選が発表されると、その直後から大統領選挙での不正があったと世論が沸騰し始め、再投票の結果ヴィクトル・ユシチェンコ大統領が誕生した(挙結果に対して抗議運動を行った野党支持者がオレンジをシンボルカラーとして、リボン、旗、マフラーなどオレンジ色の物を使用したことからオレンジ革命と呼ばれる)。しかし、政権内部の抗争が相次いだことで民衆が離反し、支持率も一桁に落ち込んだ。そして、2010年の大統領選挙では、前回大統領になり損なったヤヌコーヴィチが選出されるという結果となった。ロシア寄り政権に対して民衆が再び立ち上がり、2013年11月21日夜に首都キエフにある独立広場における大規模なデモ活動が展開され、ヤヌコーヴィチ大統領の追放へとつながった。

※ 投稿文中の敬称は略していることもございます。


Back To Top