カジノ(IR)法

右翼の産物だった競艇

IR法を受けてのカジノが日本に誕生するのはまだ先でしょうが、合法カジノがない現在でも日本は立派な「ギャンブル大国」であることを前節までの「宝くじ」と「競馬」の2つで見てきましたが、この節では「競艇」に焦点をあててみます。

1947年の地方自治法制定を契機として、競馬(中央・地方)、競輪、オートレースという多彩な公営競技が開始されました。そして、最後の公営競技として「モーターボート競走法」が1951年に制定されます。翌1952年には、長崎県大村ボート場で日本で初めての競艇が開催されました。公営競技とは、スポーツを対象としたギャンブル(賭博)のことです。

日本では1908年の刑法制定時より賭博は違法行為として規定されて現在に至っていますが、各公営競技に制定された根拠法によって、これらのスポーツで行われる「賭博行為」は例外的に、そして法的に「賭博」ではなく「競技」であるとされています。

区分 監督官庁 施行者 競技開始年 根拠法 2017年売上(億円)
中央競馬 農林水産省 特殊法人JRA 1948年 競馬法、日本中央競馬会法 27,477
地方競馬 農林水産省 地方自治体 1948年 競馬法 5,525
競輪 経済産業省 地方自治体 1948年 自転車競技法 6,400
オートレース 経済産業省 地方自治体 1950年 小型自動車競争法 660
競艇 国土交通省 地方自治体 1952年 モーターボート競走法 12,379

上記の各売上高に、toto:1080億円、パチンコ:19兆5400億円を加えた合計は、25兆7800億円。この年の一般会計の歳額は97兆4547億円ですから、国家予算の実に26.5%に相当額の博打に国民が参加している実態は、「ギャンブル大国」という表現が決して大袈裟ではないことを示しています。中でも、競艇は売上1兆2379億円をあげて、公営ギャンブル第2位の地位を占めています。他のすべての公営競技が戦前からの伏線があって公営化したものですが、「競艇」だけは戦後の混乱期に唐突に生まれ、私的な賭博運営を政府から許可された唯一のものです。しかも最も胡散臭い公営競技です。

A級戦犯容疑者が作った「競艇」

「街をきれいに!一日一善!」とのナレーションと同時に日章旗掲揚や競艇レース映像を加えて、「モーターボート競走の収益金は、防犯・防火のために役立てられています」というCMを記憶されておられる方も多いと思います。このCMは1994年までのおおよそ18年もの間、日本船舶振興会が流していたものです。同会は 2011年3月に改称して現在では「日本財団」という御大層な名前が付けられていますが、その資金源となっているのが本節でとりあげる「競艇」です。

「競艇」を公営競技に仕立て上げたのは、笹川良一(「ささがわ」と濁らない)。晩年は上記のCMに自ら出演して好々爺を演じていましたが、笹川良一ほどその評価が極端に分かれ人生に濁りが見え隠れする人物も珍しく、彼にまつわるエピソードは文字通り狂瀾怒濤。先ずは、笹川が授与された栄典をリストアップしてみます。

勲一等修交勲章光化章(韓国、1976年)
大綬景星勲章(中華民国、1977年)
勲一等瑞宝章(1978年)
国連平和賞(1982年)
ヘレン・ケラー国際賞(1983年)
ライナス・ポーリング人道主義章(1983年)
マーチン・ルーサー・キング非暴力・人道賞(1986年)
マハトマ・ガンディー世界平和賞(1987年)
勲一等旭日大綬章(1987年)
白象勲章ナイトグランドクロス章(タイ王国、1989年)
大勲位ベナルド・オ・ヒギンズ勲章(チリ、1989年)
大勲位ボルタ章(イタリア、1989年)
芸術文化勲章(フランス、1993年)

国内外からこのように高く評価される笹川良一の履歴書を、かいつまんで。

明治32年5月4日、大阪府三島郡豊川村(現・大阪府箕面市)のかつては苗字帯刀を許された庄屋だった造り酒屋の長男として生まれた。作家の川端康成とは同郷の同級生。

26歳(大正14年 1925年)の時に父の遺産を資金源として豊川村の村会議員に立候補し当選。芸能事務所、株や相場にも手を広げて一財産築く。この頃、大本教の教祖である出口王仁三郎が創設した日本道院紅卍字会(にほんどういんこうまんじかい 脚注 1 )に入会している。同会には、安岡正篤(脚注 2 )も同時期に入会。昭和40年代に、笹川は日本紅卍字会の会長を務めていた。昭和6年(1931年)に国粋大衆党(脚注 3 )を結成。ムッソリーニに心酔し、1939年にはイタリアを訪問しムッソリーニと面会するほどだった。
笹川とムッソリーニ

昭和10年(1935年)、国粋大衆党員による「大阪鉄道買い占め事件」での連座を問われ恐喝容疑で逮捕。約4年間大阪刑務所に収監された(結果的に無罪)。昭和17年(1942年)、翼賛選挙に出馬して当選、衆議院議員を一期(昭和17年5月~昭和20年12月)務めた。この期間に、鳩山一郎、吉田茂、岸信介、重光葵などの知己を得る。

昭和20年(1945年)12月にA級戦犯容疑者として逮捕された折には同志を集めて万歳三唱したほどに、A級戦犯に指定されることを名誉と考えていたフシがある。が、3年間収監されるも一度も「東京裁判」に出廷することなく不起訴のまま釈放。

巣鴨プリズンから釈放後の昭和24年、「競艇」の法制化に向けての運動を始めるも日本社会党の反対にあい否決されると(脚注 4 )、有力政治家たちに背後で接触し同じように「競艇」に執心していた大野伴睦らの一派を抑えて昭和26年6月に法案を成立させた。昭和27年に社団法人「全国モーターボート競走連合会」を設立し、「競艇」利権の全体を掌握するようになる。三代目山口組・田岡一雄組長とは飲み友達だと公然と発言していた。昭和41年(1966年)には韓国の李承晩らと「世界反共同盟」を創設して反共活動を展開したこともある。平成7年(1995年)7月18日死去。享年96。

以上の記述は検証可能な事実を羅列したものですが、その胡散臭い履歴とは裏腹に海外において笹川良一はそれなりに評価されています。

その根拠の一つがハンセン病患者への支援。偏見で苦しんでいたハンセン病患者の慰問に日本国内だけにとどまらず、ネパール、タイ、フィリピン、インド、パラグアイなどとその慈善行為は世界各国のハンセン病施設に及びました。そのような慈善活動の側面を積極的に評価して笹川良一を社会奉仕活動家と評しているのでしょうが、ピエロはそうした判断には批判的です。

1974年(昭和49年)8月24日付けアメリカのタイム誌によるインタビューで、笹川良一は自らを「私は世界で一番金持ちのファシストである The world’s wealthiest fascist.」と紹介しています。

自身からファシストと名乗った背景にあるその「ファシズム」とは一体どのようなものか、笹川良一を成り立たせていたものを見てみます。

1919年3月、ムッソリー二がミラノで結成した「戦闘者ファッショ」は、1921年11月、ローマ大会で「国家ファシスタ党」に改組され、ムッソリー二は総統に就任。1922年10月、彼は四万人の黒シャツ隊員にローマ進軍を命じ、国王から組閣を命じられます。1920年代初頭の日本におけるイタリア・ファシズム観に決定的なインパクトを与えたのはこのローマ進軍でした。

反動的な社会活動がファシズム的と解されますが、ファシズムの明確な定義はありません。論理的な解釈よりもむしろ形容的な単語をもってファシズムの枠を形づくる方がファシズムをより理解しやすいのかも知れません。理性よりも感性、愛国主義への情熱と社会主義への憎悪、理論よりも実行、空想よりも現実、などと言った言葉がファシズム解説には頻出します。

Wikipediaには、「ファッショの語源はラテン語の”ファスケス”(fasces、束桿)である。ファスケスは斧の回りにロッドを束ねたもので古代ローマの執政官の権威の象徴とされた」と書かれています。これに補足するならば、以下のような説明を追記できます。

「執政官の行列の先頭に立って棍棒と斧を持ち、国家の正義を行わんがために悪を膺懲すべき使命を象徴している。」

フランスの哲学者、思想家だったジョルジュ・バタイユは、「合法性が断ち切られるということこそ、ファシズムの性格である」と述べています。また、ムッソリーニ自身は「人間的な、精神的などんなものも、国家の外には存在しないし、いわんや価値を持つこともない」と言っていますから、ムッソリー二によるファシズムとは「極右の国家主義であり、独裁者による暴力を伴う全体主義的な政治形態」とも換言できます。このようなファシズムを信奉する者がファシストですから、笹川良一がどのように慈善活動を行おうとも、それはファシズム体制を実現するための手段にすぎなかったと言えるのではないでしょうか。

ファシズム体制とは大衆を積極的に国家へ参加させて、包含する社会です。視点を変えて言えば、国家による市民生活の包括的な管理であり、福祉・社会活動へ市民を参加させることによる市民の相互監視ということになります。

ムッソリー二によるファシズム体制にはドーポラボールという労働者余暇組織がありました。その活動内容は、教育、芸術、体育、消費や保健衛生やレクレーションなどを含む扶助活動など、社会活動全体をカバーするものでした。ドーポラボールは後に公的有益性が強調されて、行政機関と同様の法的・財政的特権が与えられます。また「全国母子事業団」なるものも編成され、乳幼児死亡率を下げて人工の増加を図り、もって健康な兵士の育成を目指しました。事程左様にファシズム体制において「福祉活動」は、その実現のために極めて重要視されたのです。自身がファシストであると公言したのですから、たとえそれがどのように美化されても笹川良一の慈善活動はこのようなファシズムの特徴から解釈すべきでしょう。

笹川財団の偽善を見抜いたパリ法廷

笹川良一とその財団に関しては、フランスで興味深い裁判沙汰がありました。

2008年「日仏交流150周年」を記念するシンポジウム『日仏外交関係樹立150周年:新たなる協力関係に向けて«Vers un partenariat franco-japonais renouvelé »』がパリで催されました。しかし、その開催資金が主に笹川日仏財団(FFJDS:la Fondation Franco-Japonaise, dite Sasakawa)から出ていることを問題視したパリ高等社会科学研究院教授カロリーヌ・ポステル=ヴィネイ教授は、50名の東洋学研究者との連名でFFJDSのシンポジウム後援からの撤退を外務省に要請しました。

パリ大審裁判所第17法廷が公開したヴィネイ博士の要請文にある「FFJDSの撤退」理由は、以下のようなものです。

• 1930年代初頭に笹川良一は、拡張政策と満州侵略を掲げて活発な国粋運動を展開する極右翼のグループを設立した。

• 1942年に国粋主義と軍国主義をかかげて衆議院選挙に当選した。

• 1945年に米国当局により、日本の侵略政策立役者の一人として逮捕され、『平和に対する大罪と陰謀』の廉で『A級戦犯』として起訴され、巣鴨刑務所に拘置され、三年後 に米国の政策が変わったため、裁判なしに釈放された。

• 笹川は、特に日本のマフィアの支援を受けて、大資産を作り、極右翼の運動に活発に関り、資産の一部を投じて慈善・メセナ事業の財団を作った。

この要請文を読んだFFJDSは、そこに「A級戦犯」と書かれていることを特に取り上げ、笹川良一は無罪で釈放されているので「A級戦犯」との記述は笹川良一の名誉を傷つけるものであると、ヴィネイ教授を提訴しました。

パリ大審裁判所第17法廷による2010年9月22日の判決は、原告の申立を全面的に退けたものでした。さらにFFJDSは上訴を断念したために訴訟はヴィネイ教授の全面勝訴となりました。

パリ大審裁判所第17法廷の判断材料となったものは以下の項目です。

• 笹川良一は1945年12月11日に「戦犯」として逮捕され、同年12月4日付けの起訴状には「戦前の最も活発なファシスト組織者の一人」で、「東亜拡張政策の強力な運動家であった」、「侵略・国粋主義・反米感情の推進運動における指導的な役割、そして現在、民主主義を阻害する組織で活発であることから、逮捕する必要がある」と書かれている(被告側から提出された仏訳文‐資料番号59、訳文に異議は出されなかった)。

• 1946年1月19日の規約は「個人としてあるいは組織の一員として、平和に対する大罪を含む罪を問われた大東亜戦争の戦犯を裁判し刑罰を科する権限が裁判所にある」と規定している(資料番号71)。

• この類別は1945年8月8日のロンドン合意に倣ったもので、その第6条には、平和に対する大罪(A級:侵略戦争の指揮・準備・開始あるいは継続)、戦争に対する大罪、人道に対する大罪の区別がある。ただし原告はその最終結論で、この文書に定義された『平和に対する大罪』のカテゴリーを示す一般の呼称として「A級戦犯」が使われるようになったと指摘し、それは多数の資料からも見て取れる。

• 笹川に対する起訴は1947年6月4日のSCAP(連合軍最高司令部)報告書(資料番号60)で取り下げられていない(「彼は20年以上にわたって軍事侵略政策、排外政策を支持した」)。

• マッカーサー将軍の1947年10月28日のノートには、彼について「日本における全体主義・侵略政策の発展において、軍部外では最も罪状の甚だしい人物の一人」と記し、「彼はA級戦犯容疑者として拘留され、東京国際軍事裁判所で裁かれるべきである」と勧告している。

• いくつもの書物・記事に、彼は戦犯として投獄された、暴力団と結びつきがあると書いてある。

フランスの法廷はこのように、ヴィネイ教授の要請行為に名誉毀損にあたる犯罪行為はなかったことを明瞭に示しています。しかしこのような判決にもかかわらず、財団側は「裁判所はカロリーヌ・ポステル=ヴィネー氏の主張に名誉毀損の性格があることを認めた」との全く逆の声明をCLAI(笹川日仏財団の広報活動を担当するコンサルティング会社)を通じて発表しました。

このような破廉恥な主張に裁判所はきっぱりと答えています。
「笹川良一が戦争犯罪者である否かはこの訴訟の問題ではない。CLAIと笹川日仏財団は言葉を弄んでおり、非常に明確な法的決定を意図的に曖昧にしている」と断じました。

日本ではほとんど報道されなかった笹川日仏財団のフランスでの完敗劇。金と権力への忖度が不要のケースでは、真実はよりパワフルです。

子供を使う姑息さと節操のなさ

「競艇」にやってくるのは薄汚れたグレーっぽい服を着て赤鉛筆を耳に差した”オッサン”、というイメージを払拭するために主催者側はあの手この手を使って売上の向上を図っています。「競馬」と同じように有名芸能人をCMに多用して”ギャンブル”色のトーンを下げ、「競艇」を「ボートレース」と言い換えて新たな博打打ちを獲得しようと躍起になっています。

「競艇」の売上高は初開催から右上がりの成長を続けて、ほぼ40年後の1991年には2兆2千億円を超えます。しかしその後はバブル経済の崩壊もあって売上は下降線をたどり、2011年には最盛時の40%弱の8千600億円までに減少しました。モーターボート競走法によって「競艇」の主催者は地方自治体と定められていますし、監督官庁は国土交通省ですから、両者は自治体の財源確保のために共に売上の回復に取り組みました。競馬と同じように射幸性の高い3連単(1着、2着、3着となるボート番号を着順通りに的中させる投票法)を導入したり、ナイターレースを開催したり、場外舟券売場を増設(現在74箇所)したり、入場料の要らない外向発売所を解説したりと、自治体の仕事とはとても思えない積極性をもって賭博運営にあたっています。

このような売り上げ対策の極めつけは北九州市の若松競艇場です。タレントを招いてのトークショーやライブショーを開催する一方で、ここは「子供」にもターゲットを絞ったイベントを頻繁に開催しています。若松競艇場公式HPには男女の幼児写真を使って「ボートレース若松で楽しもう。子供向けファミリーイベント情報」なるバナーを掲載して、子連れファミリーの囲い込みにも力を入れています。自治体が子供をダシにして市民たちにギャンブルを勧誘して金をかすめ取ることに、北九州市は何の羞恥心も感じていないかのようです。それとも日本モーターボート選手会会長である上瀧和則が言っているように、「公益活動に一役買っているという自負」でもあるのでしょうか。

競艇売上金のうち、的中払戻金は75%で、残りの25%がさまざまな名目に振り分けられています。開催する自治体の取り分は概ね3%程度と考えられていますが、(財)日本財団(旧称:日本船舶振興会)には2.6%(2007年までは3.3%だった)が交付されることになっています。

下記一覧表にあるように2017年度の売上合計が1,237,880,607,300円ですから、この年の日本財団への支払いは321.8億円。笹川良一によって始められた競艇の売上金はこのように実に巧妙なカラクリによって、笹川一族が手繰る日本財団に流れるようになっています。この日本船舶振興会は昭和37年(1952年)に笹川良一が競艇の収益金を活用するために創設しました。彼はそこに運輸省の天下りポストを用意し(現在も続いている)、運輸省(現国土交通省)関連団体に寄付をして競艇ビジネスの安定を目論んだのです。そしてその企てはまんまと成功しました。

笹川良一の遺産については長男、次男ともに相続放棄をするほどに芳しい内容ではなかったようです。税務署査定によれば遺産総額は約53億4千万円。借入金は約37億5千万円。差引純資産は約15億9千万円で相続税は約7億5千万円であったといわれます。遺産相続した三男の笹川陽平はその著『知恵ある者は知恵で躓く』に「父の他界後、私が相続税の申告をしようとしたところ、その多額な借金にびっくりしました。見事に自らの財産を使い果たして死んでいったのです」と書いていますが、相続税を納付してもなお8億余が残るにも関わらず「財産を使い果たして」と言い切るあたりの金銭感覚は、とてもピエロの理解するところではありません。

財団の金には手を付けなかったとか、ナヒモフ号(脚注 5 )の引揚げは北方領土の返還にあったとか、ハンセン病制圧活動を精力的に行っていたとか、笹川良一を好意的に評価する向きもありますが、それは「競艇」=ギャンブルという負のイメージに対して、テラ銭を使っての「財政貢献」「社会貢献」という正の側面を全面に押し出すことで、本来禁止されている賭博を正当化する仕組みを構築しただけなのではないでしょうか。

さらに、笹川良一が「海国日本を復興し、併せて地方財政の窮乏を救うには、公営競技としてモーターボート競走を実施し、その収益金を財源とするのが最もふさわしい」と心底思っていたとしたら、それこそ確信犯とも言えるものです。思い込みは強ければ強いほど味方を増殖させてその行為がエスカレートすることは、古くは十字軍に近くはヒトラーのナチや笹川良一が傾倒したムッソリーニのファシズム、そしてオウムやISなどで明らかです。

日本財団が行う最善の慈善行為は、一切の競艇ビジネスを廃絶することです。

その根拠として、日本財団の偽善を象徴する事象を一つ。
笹川陽平・日本財団会長が主催した国際専門家会議「福島における甲状腺課題の解決に向けて〜チェルノブイリ 30 周年の教訓を福島原発事故5年に活かす」が、2016年9月に開催されました。

ベラルーシから呼ばれた専門家ヴァレンティナ・ドロッツ氏は「早期診断が非常に重要」と指摘し、ロシア国立医学放射線研究センターのヴィクトル・イワノフ氏も「福島でも、今後10年20年以上データを取り続ける必要がある」などと発言して、福島県で多発する子どもたちの甲状腺ガンに対して検診や治療体制の拡充を早急に図るべきとの見解が示されました。しかし会議終了から三ヶ月たった12月10日、会議内容とは真反対の“検査縮小”との提言が福島県に提出されました。
その内容は「甲状腺がんを含む甲状腺異常の頻度は検査対象集団中で増加しているが、これはスクリーニング (検診)効果と呼ばれるものである。」「健康調査と甲状腺検診プログラムは自主参加であるべきである」などといった会議の内容を恣意的に方向付けしたものでした。

この提言書には、「100ミリシーベルトは大丈夫」「ニコニコ笑っている人には放射線の害は来ません」「福島県は世界最大の実験場」などと発言して世間の顰蹙をかった山下俊一・長崎大学副学長の名前は笹川陽平の次下にありますが、治療体制の拡充を会議開催中に主張したドロッツ氏やイワノフ氏の名はありません。

人の痛みや苦しみを誰もが共にし、「みんなが、みんなを支える社会」を日本財団はめざします。と、同財団のHPには記載されていますが、表には見えなくとも根本的に彼らが目指しているのは、みんなが競艇ギャンブルで支えてくれる日本財団の維持なのです。

2017年度 競争場別売上
競走場 所在地 総売上金額 売上順位 総利用者 平均購買額
桐 生 群馬県 77,394,378,900 5 17,560,358 4,407
戸 田 埼玉県 50,990,644,900 10 11,140,143 4,577
江戸川 東京都 37,998,222,800 16 9,340,273 4,068
平和島 東京都 51,515,866,500 9 11,640,767 4,425
多摩川 東京都 36,224,424,800 18 8,896,416 4,071
浜名湖 静岡県 43,478,453,800 14 10,494,850 4,142
蒲 郡 愛知県 83,302,366,500 4 18,214,596 4,573
常 滑 愛知県 35,851,735,600 19 10,319,989 3,474
 津 三重県 30,666,024,100 23 8,868,830 3,457
三 国 福井県 29,889,535,000 24 8,316,304 3,594
琵琶湖 滋賀県 39,340,896,800 15 10,287,810 3,824
住之江 大阪府 94,778,389,800 1 18,275,922 5,185
尼 崎 兵庫県 37,139,953,900 17 10,850,015 3,423
鳴 門 徳島県 33,716,070,000 20 9,139,995 3,688
丸 亀 香川県 88,504,889,200 2 18,329,979 4,828
児 島 岡山県 32,126,307,100 22 9,682,309 3,318
宮 島 広島県 33,557,822,600 21 10,363,333 3,238
徳 山 山口県 43,634,258,400 13 11,185,205 3,901
下 関 山口県 67,550,031,800 6 14,538,063 4,646
若 松 福岡県 84,363,733,100 3 17,672,754 4,773
芦 屋 福岡県 54,342,912,100 8 12,098,091 4,491
福 岡 福岡県 46,122,067,000 12 10,858,430 4,247
唐 津 佐賀県 47,714,433,200 11 11,555,685 4,129
大 村 長崎県 57,677,189,400 7 12,584,972 4,583
合 計 1,237,880,607,300 292,215,089 4,236

 1:日本道院紅卍字会(にほんどういんこうまんじかい)
道院は1921 年に中国山東省済南で乩壇(扶乩という占いを行う団体)から発展した教団。下部の慈善組織である世界紅卍字会がつとに知られる。扶乩(ふけい)とは、 中国で行われた占いの一種で、二股の木の下に筆の役割をするものをつけて砂上に置き、神降しを行って砂上に書かれた印で神意を知る方法。不老不死で神通力をもつとされる仙人の存在を肯定し、独自の信仰対象である神仙世界を構築した。新興宗教と表裏一体の慈善団体であるが、中華人民共和国成立後は反動的宗教として鎮圧された。 日本には現在でも公益社団法人日本紅卍字会として存在し、東京都新宿区にその本部がある。

 2:安岡正篤(やすおか・まさひろ)
明治31年(1898)、2月13日大阪市中央区に生まれた。幼い頃から四書五経に親しみ中学生のころ王陽明に傾倒。東京帝国大学法学部政治学科卒業と同時に、『王陽明研究』を著す。大正15年(1926年)に私塾「金鶏学院」を創設。門下生には元・大蔵大臣の井上準之助と三井財閥総帥の団琢磨を殺害した血盟団事件の首謀者だった井上日召や四元義隆がいる。また、2.26事件の首謀者西田税や北一輝、大川周明などとも交遊があった。さらに、昭和20年の天皇による「終戦の詔勅」草案を刪修したことでも知られる。「昭和」「平成」の元号案の発案者とも言われるが異説もある。吉田茂、池田勇人、佐藤栄作、中曽根康弘、福田赳夫、大平正芳などの首相らが親近した。最晩年は占い師・細木数子との浮き名でマスコミを騒がせた。昭和58年12月13日没、享年86歳。

 3:国粋大衆党
笹川良一が昭和6年(1931年)に設立した極右翼団体。党員には、伊ファシスト党を真似た黒シャツを着用させていた。先行する博徒系の「大日本正義団」とともにイタリア的ファシズムを日本に広めた。満蒙進出、満州国承認、暴支膺懲、国際連盟脱退、国体明徴などの強硬外交を主張し協調外交政策を「軟弱外交」と弾呵した。本部は大阪市東区北浜に置かれ、23の支部があり党員数は最大時で1万5千名いたという。東条英機陸相が「戦陣訓」を全軍に示達した昭和16年(1941年)の2月11日の紀元節を期して、東京両国の国技館で南進要請皇民大会を行い、軍部の南進政策を宣揚した。なおこの年の9月、国粋大衆党東亜部長に児玉誉士夫が就任した。
児玉誉士夫は、1911年福島県安達郡本宮町生まれ。右翼運動家、政財界のフィクサー。笹川良一の仲介で海軍航空本部嘱託となり大西瀧治郎海軍中将(特攻隊の創設者)の肝いりで銅、潤滑油、雲母、プラチナなどの軍需物資を海軍へ渡していた「児玉機関」を作ったとされる。日本軍が大陸から撤退するときに、児玉は戦時中貯えていたダイヤやプラチナなどの軍需物資を朝日新聞社の飛行機に乗せて日本に持ち帰り、これが後の自民党の資金源となる。1956年、河野一郎(現外務大臣・河野太郎の祖父)が日ソ共同宣言のためにモスクワに赴く際に、関東一円の極道親分を40人ちかく集めて走行会を催した。また、1959年には安保闘争の最中に訪日が予定されていたアイゼンハワー大統領の警護不足を補うために自民党安保委員会は任侠団体に協力を要請。児玉の声掛けで任侠団体は3万人を超える構成員を集めた(アイゼンハワーの訪日は実現しなかった)。1976年、ロッキード疑惑で田中角栄とともに起訴。昭和59年(1984年)1月没。享年73。
なお国粋大衆党は後に国粋同盟と改名し、戦後も日本勤労者同盟と名乗って活発な右翼運動を行った。

 4:日本社会党の反対
第10回国会 運輸委員会 第27号  昭和26年5月30日(水曜日)の議事録には、日本社会党を除名された議員が作った労働者農民党所属の参議員議員だった鈴木清一の発言が残されている。
「それから今一つは地方財政の根本の改善を図ると言われているようでありますけれども、このいわゆる射倖行為が含まれておりまする限りにおきましては、競輪、競馬、いろいろのドツグ・レース等から見ましても、決してこれは地方財政は或るほどこれを潤わされて、その県別によりますれば非常に公共事業に対しまするいろいろの財政が潤うておるようでありますけれども、併したがら射倖行為につられて行きましたところの人たちが、非常にその後、競輪のために、どうとか、競馬のためにどうとか言つて身を破綻の苦しみに陷れている人たちも非常に多い。教育上からいつても一方が潤うても、それがその人たちの生活を本当に向上させるため、或いは地方発展のために使われているようであるにかかわらず、それはやはりこうした行為によつて無理に一般の人たちがそこに呼びつけられて税金を納めて行くというような結果である。而もそんな射倖行為を投機的に考えても海事思想を普及しているということは、地方財政が幾ら潤えばといえども、本当に国家的の大きな意味から見る場合には、決して地方財政をそのようなことに利用するがために国民一般の思想が非常に悪くなつて行く結果になるとすれば私は大きな問題だと思う。」

 5:ナヒモフ号
ナヒモフは帝政ロシア時代に活躍した提督の名前。巡洋艦「ナヒモフ号」は、1905年5月27日の日本海海戦で被弾し対馬沖にて自沈処分された。沈没当初から財宝を積載していたとの情報が飛び交い、1919年(大正8年)に早くも最初の引き上げが試みられている。以後、政治家を含む多くが挑戦するもことごとく失敗。1980年、日本海洋開発のある男がナヒモフ号の引揚げ話を笹川良一に持ち込み、笹川良一は私財(と言われている)30億円を投じて支援。笹川良一は「ナヒモフ号には7兆円の財宝が眠っている」と宣言し、国会議員が本議会で発言したり駐日ソ連大使が所有権を主張するなど話題となった。水深93メートルの海底から1本のプラチナのインゴット10kgの引揚げには成功するも成果はそれだけだった(プラチナと思われた塊はバラスト用の鉛だったことが後日判明した)。笹川良一は「ナヒモフ号」の財宝と引き換えにソ連との北方領土問題解決を図ろうとしたと伝えられるが、真意は分からない。一つ言えることは、笹川良一がこの投資話に注ぎ込んだ30億円は、「競艇」から得たテラ銭だということ。

※ 投稿文中の敬称は略していることもございます。


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