カジノ(IR)法

博打のルーツ『雙六』

「中世の秋」を書いたヨハン・ホイジンガは、人間を「ホモ・ルーデンス(遊ぶヒト)」と呼んで、人生は遊びの中にあると言い、人間は遊びの中で言語・芸術・宗教・戦争・科学・知識というあらゆる文化を産み出してきたとしました。このホイジンガの「遊び」論の延長線上にいるのがフランスの、ロジェ・カイヨワです。

1958年に出版されたロジェ・カイヨワ著「遊びと人間」(Les Jeux et les Hommes. Roger Caillois)には、遊びについてつぎのような定義があります。

Sous l’angle de la forme, on peut donc, en bref, définir le jeu comme une action libre, sentie comme fictive, et située en dehors de la vie courante, capable néanmoins d’absorber totalement le joueur.

「その形態からいえば、「遊び」とは自由な行為であり、虚構であり、日常生活の外側に位置しながらも、プレーヤーを完全に吸収してしまう可能性があるものだと定義できる。」

西欧の「遊び論」は、言語的な 遊び=play=演劇 の図式が示すように演劇論の一つとして捉えられていますが、カイヨワが、遊びは「虚構」で非日常的でありしかもプレーヤーを虜にしてしまう、と定義付けしたことは大変に興味深いものがあります。

さて、日本における賭け事の代表は、ながいあいだ「双六」でした。その淵源は紀元前3000年以上も前のエジプトにあるといわれ、シルクロードによって中国へ運ばれ、日本には7世紀までに伝わりました。しかし、渡来して間もない時点で「双六」による社会的悪影響が懸念されるようになり、日本書紀 卷第卅(持統天皇 三年 十二月己酉朔丙辰(持統三年十二月八日)=690年1月26日)には、「禁斷雙六」(すごろくをいましめやむ)という文字があり、「双六」禁止令が出されています。

双六が禁制となったの理由は、なによりもそれが「遊び」であると同時に賭博でもあったということです。

勝敗を運に任せて財産をかけ、結果としてただ金品のみが移動するという行為は健全な社会生活とは真反対にあり、時には命に関わる争いにまで発展する賭博は、その当然の帰結として禁制の対象となりました。市井の人たちに注意を促して、賭博が引き起こす非社会的な結果、つまり罪の意識に目覚めさせることがその目的だったと思われます。

しかし、「禁斷雙六」の効き目はあまりありませんでした。この日本書紀の記述から80年、さらに新たな禁止令が出されます。

続日本紀巻第十九(天平勝宝六年=765年)には、次のようにあります。

「官人百姓。不畏憲法。私聚徒衆。任意雙六。至於婬迷。子無順父。終亡家業。亦虧孝道。回斯。遍仰京・畿・七國。固令禁断。…」
(昨今、官人や百姓らが憲法を恐れず、仲間たちを集めて雙六(すごろく)をしている。そのため、みだらな道に迷い込み子は父に従わず、ついには家業を失って考道に欠けることとなる。従って、命を出して京、畿、七道の諸国へ雙六を禁止せよ)

しかし、もはや「双六」への興奮は民衆にとどまらず、宮廷の中へも浸透し公卿貴族やさらには天皇へも拡がってゆきました。
摂関政治を退け院政を敷いた白河法皇の天下三不如意が『平家物語』に出ています。

「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」

天皇でさえも意のままにならないことの喩えに「双六」を加えるほどに、平安時代の「双六」は全ての階層の茶飯事となっていました。

平安末期にカエルやウサギを擬人化して生き生きと表現した『鳥獣人物戯画』には、人々が夢中になって双六をする様子が描かれていますし、同時代に編まれた『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』には、「我が子は二十に成りぬらん、博打してこそ歩くなれ国々の博党(ばくたう)に」との記述がみられ、諸国を転々と歩きまわるプロの「双六」プレーヤーさえもが存在したことが書かれています。
前述のロジェ・カイヨワは、「人間は生来遊びが好きで、遊びは人生に欠かせない活動であり、生活に潤いをもたらす」と書いていますが、前述のようにそれは「演劇」文化を背景とした考察ですから、日本の「遊び」は鉄火場となってしまう博打場であり、そこから「生活に潤い」を呼び込んだ人は皆無でしょう。

平安以降も双六禁制の法令は繰り返し発令されて、禁制の効果を狙った懲罰も時に苛烈になりますが、それでも博打への情熱が市井から消えることはありませんでした。

『吾妻鏡』の嘉禄2年1月26日(1226)の記述。
「田地領所を以て、双六の賭事として戯れる事、並びに私の出挙利過一倍、及び挙銭利過半倍の事、宣旨の状に任せ一向禁断すべし。違犯の輩有らば、交名を注進すべきの旨仰せ下さると。」

それでも博打は止みません。1303年には『鎌倉幕府追加法』が出されます。

「博奕の事侍におきては、斟酌あるべきか。凡下の者に至りては、一二箇度の者は、指切らるるべし。二三箇度に及ぶ者は、伊豆大嶋に遣らるるべき也」

武家社会を確立した鎌倉幕府にとって博打は社会の秩序を乱すものであり、上述の法令は博打がもつ反社会性への裁断でもありました。それは室町時代になっても変わらず、『建武式目』でも賭博は禁止されて、追加法では賭博に同席していただけでも有罪とされました。

戦国時代になると、各地の戦国大名が独自に賭博禁止令を出しています。

武田信玄の『甲州法度』
長宗我部氏の『長宗我部氏掟書』
伊達氏の『塵芥集』
北条氏の『北条氏綱遺訓』
結城氏の『結城政勝御法度』
六角氏の『六角氏式目』

さらに江戸時代に入ると商家も賭博を禁じるようになります。

博多の豪商・島井宗室による『島井宗室遺書』
大阪・鴻池新六の家訓『幸元子孫制詞条目』
講道館柔道の創始者である寒川正親の『子孫鑑』。

健全で誠実な人生をたもつためには博打は悪であり排除すべきであるということを、古の人たちはしっかりと理解し一族郎党に伝えていました。

明治維新がなっても依然として江戸幕府の刑法や藩法が用いられていましたが、明治初年には早くも「仮刑律」が編纂されて、禁じられた賭博の違反者には笞50が課せられました。明治13年には刑法が発せられ、賭博者には1ヶ月から4年の懲罰が、開帳者には1年から10年の懲罰が課せられるようになります。明治40年に改正された刑法では懲罰はさらに重くなり、賭博者には3年以下の懲役となり、それに加えて「富くじ」を販売した者にも2年以下の懲役が課せられるようになりました。この法律は昭和20年の敗戦まで生きました。

今ではTVでも新聞でも定期的に有名俳優やタレントをふんだんに使ってCMが流される「宝くじ」さえも戦前は博打と捉えられていましたが、戦後は「合法ギャンブル」などという政府に都合の良い言葉がつくられ、日本は国をあげてギャンブル大国へひた走るようになります。

※ 投稿文中の敬称は略していることもございます。


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