ピエロのつれづれ

厚顔と大ぼらの日本共産党(2)

厚顔と大ぼらの日本共産党(2)は、このエピソードの本題である同党の大ぼらについてです。

前回掲載した問題のチラシの下部には、このような主張が掲載されています。

子供が親から最初に教わる社会ルールの一つは「嘘をつくのはいけない」ということです。

カントの定言命法ではありませんが、どんな場合にも「嘘をつくのはいけない」ルールが適用されるべきだとはピエロは思っていません。「嘘も方便」という表現があるように、あのお釈迦さまでも、時と場合によってはものごとを円滑に運ぶための手段として真実でないことを用いました。

しかし、このチラシに書かれてる日本共産党の主張は方便ではありません。明らかな「嘘」「大ぼら」です。しかもこの「嘘」が、公党の歴史としてだけでなく、歴史全般の一部として、有権者に語られていることにピエロは大きな義憤を感じます。

「どんな国の覇権主義も許さず正面対決
日本共産党は、これまで旧ソ連による覇権主義-チェコスロバキア侵攻、アフガニスタン侵攻、そして日本共産党の破壊まで企てた攻撃を正面から戦い、打ち破り、最後はソ連の崩壊という歴史的決着をつけました」

この文章を一読すると、日本共産党が覇権主義と戦い、それを打ち破ったことでソ連の崩壊に歴史的決着を付けた、と解釈されます。

しかし、日本共産党が世界の覇権主義と戦ってきたとは、ピエロは寡聞にして全く存じませんでした。

本文には、「(旧ソ連の)企てた攻撃と正面からたたかい」と書かれていますが、「正面からたたかった」具体的内容はこのチラシの短い文章からは窺い知ることはできません。そこで、同様の内容が書かれているものがないかと「赤旗」を検索して見てみました。ありました。
2022年3月16日付けの記事「旧ソ連・ロシアの覇権主義と対決」をみると、彼らが折々の覇権主義とどのように「戦った」かが記されています。

執筆者が我田引水の得意な日本共産党ですので、彼らが主張する「戦い」の要旨だけ書きます。

- 日本共産党は、旧ソ連時代からプーチン・ロシアまで、同国の覇権主義と正面からたたかい続けてきました。

- 日本共産党は、81カ国の共産党・労働者党が参加する国際会議の予備会談(60年10月)で、ソ連共産党が中心になって用意した共同声明原案に80項目を超える修正案を提出し、ソ連を世界の革命運動の中心とするなどの間違った主張に対する論戦を展開しました。

- 64年4月には、ソ連共産党から、日本共産党は世界の革命運動から逸脱しているなどと非難・攻撃する書簡が送られ、続いて5月に日本共産党の一部の幹部がソ連に追従して反党分派を旗揚げしました。日本共産党は同年8月、ソ連側の書簡に全面的に反論しこれまでの干渉行為を告発する「書簡」をソ連に送付。全文を「赤旗」で公開しました。

- 66年からは中国・毛沢東派からの攻撃も開始されました。日本共産党は、「赤旗」に次々に論争文書を発表し、干渉攻撃を打ち破るたたかいを全国で取り組みました。

- (1979年12月のソ連によるアフガニスタン侵略に際いて)ソ連軍の行動が、アフガニスタン人民の民族自決権を侵害する侵略行為であることを厳しく批判し、即時撤退を要求しました。

- 日本共産党は、「日本の歴史的領土である千島列島と歯舞群島・色丹島の返還をめざす」(綱領)との立場で、国際的な道理に立った交渉こそが必要だと一貫して主張、覇権主義の誤りの是正を求め続けてきました。

- (2008年のロシアによるグルジア侵攻の際して)日本共産党は「ロシアによるグルジアにたいする主権侵犯について」と題する見解を発表。一方的な「独立」承認は、「国連加盟国の主権、独立、領土保全を尊重するという国連憲章、国際法の原則に反する行動である」と批判し、「独立」承認の撤回、ロシア軍の撤退とグルジアの主権尊重、外交的な話し合いによる平和的な解決を求めました。

などなど、折々の「覇権主義」的行為に際してとった日本共産党の対応を羅列しています。

しかし、この文章を俯瞰すると、格段の結論表現がすべて「論戦を展開しました」「全文を公開しました」「要求しました」「求めました」で終わっていることです。

ピエロがこの記事から抽出した結論は、彼らの「戦い」は文書表現による喧呼が全てで、それ以上のものではないということです。つまりレトリックに過ぎません。紙に書いて表現することが彼らの「戦い」のすべてであり、そこには何らの具体的な行動は芥子粒程もありません。

相手に与えた影響ではなく自分が主張した「文書」だけに力点を置いて、何の検証もなしにその「文書」が大きな影響を相手に与えたと主張することを私たち凡人は、「大ボラ」もしくは「絵空事」、あるいは「でたらめ」、「欺瞞」、「荒唐無稽」、「二枚舌」、「事実無根」、「ヨタ話」、「でっちあげ」、「大風呂敷」と教わりました。このような日本共産党の主張は「方便」ではなく、あきらかに有権者を誑かす虚偽の情報であり、自身を偽装させるためのレトリックです。

広辞苑には「戦う」という言葉が、次のように解説されています。

『「戦う」は、武器をもって勝敗を争うこと、スポーツで勝敗を争うこと。「闘う」は、組み合って技量の優劣をきそうこと。利害反する者が打ち勝とうと努める闘争のこと。
《参考》「戦」は戦争・試合を始め選挙戦など具体的な争いに使う。』

ここでは勝敗を競うことが「戦い」の本意としていますから、自論を公開するだけの行為に「戦い」という言葉は使うことはできないことになります。言論でもディベートや、討論会、会議などで正当性を競うことはありますが、文書を公開するだけでは具体的な争いとは程遠いのですから「戦う」ことにはなりません。しかし、日本共産党にかかると、意見公開だけでも立派な「戦い」と表現されてしまいます。ピエロもかつては新聞投稿欄にいくつかの意見が掲載されました。しかし、ピエロはそれが「戦い」などとは微塵も思ったことはなく、投稿は単なる意見表明であり、それ以上のものではないという認識でした。

さて、問題はチラシです。

冒頭に書きましたように、このチラシでは「日本共産党が覇権主義と戦い、それを打ち破ったことでソ連の崩壊に歴史的決着を付けた」という自論が書かれています。

しかし、ソ連の崩壊が日本共産党の主張によって誘引されたなどとする文献も、報道も未だかつて世界のどこにも存在したことはありません。インターネットの検索ツールで同件を、英語、フランス語、イタリア語、ドイツ語で検索しても何もでてきません。唯一表示されるのは、日本語での検索でしかも出てくるのは日本共産党のHPだけです。これは、彼らの主張に何ら妥当性も正当性もないことの証左であり、それは彼らが創作した夢物語(のようなロマンティックなものでもない)に過ぎないことを示しています。
ある主張の正当性は、検証できる事実や歴史的な資料、第三者による立証を背景に成立していることが必須の要件です。しかし、日本共産党が言うところの「覇権主義と戦い、それを打ち破ったことでソ連の崩壊に歴史的決着を付けた」という主張は、何の裏付けもない戯言なのです。しかも、有権者に間違った認識を植え付けようとする悪意のある戯言なのです。

2022年3月16日付け「赤旗」は、「“あらゆる覇権主義”と正面からたたかい続けてきた歴史をもつ自主独立の党としての命題が刻まれています。」という一文で終わっています。自画自賛、牽強付会な結論には、次の資料を突きつけようと思います。

イワン・イワノビッチ・コワレンコは、元ソ連共産党国際部日本課長。第二次世界大戦後は、シベリアに抑留された日本人捕虜向けの『日本新聞』の編集長を務め旧日本兵の親ソ化工作を行ったソ連共産党の中心にいた人物です。著書『対日工作の回想』では、対日工作の中心目的は日本とアメリカの離間(日本の中立化)にあったとしています。

1993年、週刊文春とのインタビューで、レフチェンコは以下のように証言しています。

「宮本顕治(脚注 1 )をリーダーとした日本共産党がソ連離れを図っていたことは事実だが、私はそれを子供が駄々をこねるようなものと解釈し、要請のまま援助を続けてきた」

これが日本共産党の言う「戦う」ことの真相であり、彼らの主張はソ連から見れば「駄々をこねる」こどものおねだりにしかすぎませんでした。また、ここの「援助」とはソ連共産党から日本共産党への活動資金援助のことで、例えば『クレムリン秘密文書は語る-闇の日ソ関係史』(名越健郎著 中公新書 )にある以下のような事実のことを指しています。

『親愛なる同志、1962年の御援助として、15~20万ドルを供与されることをお願いします。これは、党の一般活動、来年の参議院選挙、党学校建設、党本部建設に使用されるためです。同志的挨拶をもって 1961年11月1日 野坂参三(脚注 2 )』

表向きはソ連の「覇権主義」に批判を加えているようでも、裏では資金提供をおねだりする党のどこが「覇権主義と戦」ってきたというのでしょうか。

旧ソ連時代からあらゆる覇権主義と正面からたたかってきた、とこのチラシには大きなフォントで書かれていますが、それは彼らだけの遠吠えに過ぎません。

1991年のソ連崩壊で初めて発掘・公表されたソ連秘密文書とそのデータに基づいて書かれた『クレムリン秘密文書は語る-闇の日ソ関係史』(名越健郎 中公新書)に、「左翼労働組織支援国際労組基金の各国共産党に対する援助額」という以下のような表が記載されています(p.83 仏、伊、日のみ抜書き)。

  1951年 1955年 1961年 1963年
フランス共産党 120万弗 120万弗 150万弗 150万弗
イタリア共産党 50万弗 264万弗 400万弗 500万弗
日本共産党 10万弗 25万弗 10万弗 15万弗

1951年(昭和26)当時の1円は現在の200円ぐらいに相当しますから、同年に日本共産党がソ連から受けた資金援助は約72億円となります。

このような資金疑惑が報じられると、志位和夫書記局長は1993年4月13日付で次のような談話を発表しました。

「一、日本共産党として旧ソ連共産党に資金を要請したことはないし、党の財政にソ連資金が流入した事実はない。
 一、秘密基金に関する資料の真偽を速断することはできないが、リストによれば、1955年に25万ドルが日本共産党に拠出されたことになっている。仮にそういう資金の流れがあったとしても、それは党として要請したり、受け取ったりしたものでは全くない。1950年から55年までの期間、党中央は解体し、党は分裂していた。分裂した一翼が亡命先で「北京機関」なるものをつくり、ソ連、中国はこれを公認して、援助を与えていたが、第七回党大会で統一を回復した日本共産党はこれを正規の機関として認めてこなかっただけでなく、今日では大国覇権主義の手先としての活動であったことを指摘している。」

名越健郎によれば、ソ連側からの資金送付先は党名と個人名が明確に区分されていて、党向けの資金は「イタリア共産党」や「日本共産党」などとはっきりと明記されているのだといいます。志位和夫はこの談話で秘密資金の流れがあったことは認めながらも、それを受け取っていたのは、彼が指す「分裂した一翼」だと言っています。一翼の一人は野坂参三ですが、彼は宮本顕治と共に戦後から20数年間も日本共産党の看板でした。後に野坂は密告疑惑で党を除名されてはいますが、志位和夫は降りかかった疑惑の全てをかつての指導層に押し付けて自分たちの無謬性を主張しています。

これでもまだ日本共産党は、自分たちは「あらゆる覇権主義と正面からたたかってきた」と言い張るのでしょうか。

それでは、これはどうでしょうか?

公開された1962年のペトロフ・袴田(脚注 3 )会談の報告には「日本共産党の病院に医療機器を提供する問題」と題されるものがあります。(ペトロフは、イズヴェスチヤ紙東京特派員)
これは、1961年8月7日付けのソ連共産党第192回書記局会議議事録に記載されているものです。

1. 日本共産党中央委員会の病院のために脳波計一台、顕微鏡用細片切切断機一台、電気泳動器一台、血管縫合器一台の供給に関する日本共産党中央委の要請を承諾する
1. ソ連保健省に対し、これらの医療機器を61年末までに日本に送付するよう通達する。
1. 総額5000ルーブル(当時のレートで約160万円)はソ連共産党の党財源から支出する

この時期、日本共産党は機関紙「赤旗」用の印刷輪転機もソ連におねだりしていますが、東欧で製造されたものは型式が日本のものと合わないと判明したため、見送られています。

これほど明確な資料があるのに、それでもまだ「あらゆる覇権主義と正面からたたかってきた」と言い張るのでしょうか。ここまでくると、彼らの主張は哀れでもあります。

そもそも、日本共産党自身が覇権主義の権化なのであり、覇権主義をもって日本での地位を確立しようとしている覇権主義者の張本人なのだとピエロは確信しています。

本稿の最後に一言。ウクライナでは毎日子供やお母さん、お年寄りまでが卑劣で異常な旧ソ連KGB諜報員だった男によってその生命を脅かされています。そのようの悲惨な戦争を利用して独善的な自論を展開し、党勢を拡大しようとする日本共産党が日本どころかこの星のどこにも存在する価値は、まったくありません。

今夏には参議院議員選挙が行われます。良識ある有権者のみなさんの明哲を切に願っています。


 1:宮本顕治
1908年10月17日 山口光市に生まれる。愛媛県松山高校在学中に社会科学研究会を組織し、松山に『無産者新聞』支局をつくるなど早くから共産主義に傾倒。1931年、東大卒業後、日本共産党に入党し、プロレタリア作家同盟に参加。1932年、中条百合子(ゆりこ)と結婚、1933年2月、共産党中央委員となるも同年12月、治安維持法とスパイ査問事件で逮捕され、無期懲役の判決を受ける。1945年10月17日にはGHQにより勅令第579号(大赦令)が発令され、治安維持法等の政治犯罪の赦免が決定され、宮本顕治も出獄した。1945年12月29日には、昭和20年勅令第730号(政治犯人等ノ資格回復ニ関スル件)が発令され、政治犯や思想犯、軍事犯に対し、その刑の言い渡しを無効とするものであったが、この勅令には例外規定が存在して監禁、監禁致死、監禁致傷、傷害致死、死体遺棄、そして銃砲火薬類取締法施行規則違反などは勅令の適用外であったため、釈放された宮本らは刑の執行が停止されている状態となる。宮本顕治の罪状は、治安維持法違反、監禁、監禁致死、監禁致傷、傷害致死、死体遺棄、銃砲火薬類取締法施行規則違反。スパイ査問事件は、当サイトのカテゴリ「黒い共産主義」でも言及する予定です。
1970~1982年まで党委員長を務め、委員長を不破哲三に譲った後は議長となる。平成19年7月18日死去。98歳

 2:野坂参三
1892年山口県萩市出身。慶応義塾大学在学中に友愛会(日本労働総同盟の前身)に入会し、卒業後はその本部書記となる。1922年日本共産党結成の年に同党へ入党、28年3月 15日の一斉弾圧で投獄されたが、出獄後、31年党の指令でソ連に脱出、コミンテルン執行委員となり、「日本共産主義者への手紙」などを執筆。 40年、中国入りし、毛沢東の率いる中国共産党と行動をともにするなど、おもに海外で活動を続けた。1934、36 年の2回にわたり、偽造パスポートで米国に密かに潜入。在米日系共産主義者の協力を得て、ロサンゼルスなど西海岸で、対日革命工作のキャンペーン活動を行った。1946年1月、16年ぶりに日本に帰り、再出発した日本共産党の指導部の一員として、「愛される共産党」「民主人民戦線」など、新たな方向性をもたらした。1968年中央委員会議長、1982年名誉議長となったが、1992年に戦前のソ連時代に事実無根の同志をソ連当局に密告し死に至らしめた事件により党を除名された。1956年以降 77年の退任まで参議院議員に4回当選している。

現在の日本共産党は「私たちは歴史を通じて憲法九条を守ってきた唯一の政党」などと戯言を常々言っているが、現憲法成立当時の彼らは全く逆の立場だった。
1946年(昭和21)8月2日、衆議院で憲法改正案の採決が行われた。結果は賛成421票、反対8票。反対票8票のうち6票は日本共産党議員のもの。野坂参三は憲法改正審議会で次のように日本共産党の立場を堂々と述べた。
「当案(憲法九条)は戦争一般の放棄を規定しているが、共産党は他国との戦争のみを規定することを要求する」
「我々はこのような平和主義の空文を弄する代わりに、今日の日本にとってふさわしい、また実質的な態度を執るべきである。」

「日本共産主義者への手紙」1936年2月10日。党員名である岡野進の名でモスクワに於いて発表された日本共産党の綱領的文書。
「親愛なる同志諸君 我が党はプロレタリア独裁を目指し、先ずブルジョア民主主義革命を遂行せんとしている。・・・ブルジョア民主主義革命の発展と、それを更に社会主義革命にまで押し進めるための闘争こそが、日本プロレタリヤ独裁、ソビエト社会主義制度の樹立、人による人の搾取制度の撤廃への唯一可能の真実の道である。これこそが社会の全成員が享楽し得る裕福と文化生活への道である。」

 3:袴田里見
1904年(明治37)8月11日青森県上北郡下田村(現・下田町)生まれ。1927年(昭和2)ソ連共産党に入党。3年帰国後、宮本顕治らと日本共産党再建運動に従事するが、同年治安維持法違反で検挙。7年まで堺刑務所で服役。出獄後、再び地下活動に入り、1933年中央委員。1935年に逮捕されるが、非転向を貫き、戦後釈放される。その後、党中央委、政治局員、幹部会員として宮本顕治と共に活躍。党副委員長となるが、1977年(昭和52年)宮本顕治の路線を批判したことから党員権制限処分。その後自身も関係したスパイ査問事件に関連して週刊誌などで党や宮本を攻撃。これにより党員権剥奪処分、同年12月30日の党中央統制委員会で本人欠席のまま「規律違反」を理由に除名処分を受ける。1990年(平成2年)5月10日死去。

※ 投稿文中の敬称は略していることもございます。


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